を映して淡々しい。
「今日はお一人ですか?」と彼がきいた。
「ええ此の頃ではお客もあまり無いのですから、女中は二三日前に兄の方へ、やはり温泉場で宿屋をしていますものですから、その方へよこしてしまいました。ここまで三四町しかありませんからね。それに晩は泊りに来てくれますし……」
「昼間でもお一人でしたら随分静かでしょう。」
「ええもう静かすぎて淋しい位ですよ。でもそんな時、いつも聖書《バイブル》を少しずつ読むことにしていますの。」
 と云って彼女はちらと男の顔を見た。「淋しい時は大変に慰められますから。」
「ずっと前からの御信仰ですか。」
「そんなに昔からでもありませんけれど……。」云い乍ら彼女はその当時のことを思い浮べた。夫の死後故郷に帰って余儀ない事情からこの湖畔の茶店を守る身とまでなった当時のことから、ある夏に度々訪れて来た一人の信者に導かれてその途に入ったことなど。そしてこうつけ加えた。「それから私は大変幸福になったような気が致します。」
「私も一度は信者の途を歩いたことがありました。」彼の顔がチラと輝いた。「今は別の途を歩いていますが。」
「それでは、」と云ったが一寸言葉が見出せなかったので彼女はこうつけ加えた。「私神様を信ずるのはいいことだと思っています。」
 青年は何とも答えなかった。漠然とした不安が彼女の心を襲った。「祈らねばならない」とこう思った。それでそっと胸に手を組んだ。
「あなたは……。私こんなことを申してもいいのでしょうか。」と云って彼女は青年の顔色を伺った。彼はじっと燃えつきゆく火を見つめている。「あなたは何かに悩んでおいでではないでしょうか。神様を御信じなさると宜しいのです。私もこういうことに身を落すまでどんなにか苦しんだでしょう。でもその時私の心を救って下すったのは神様だったのです。」
「あなたは神様をほんとうに信じていられますか?」
「え、信じています。」と彼女は明瞭《はっきり》と答えた。
「あなたは、」と云って青年はじっと彼女の顔を見た。「ほんとうに心からもういいと思うほどお祈りをなすったことがおありですか? その時何かがあなたの涙の祈りに答えたでしょうか?」
 冷たいものがスーッと彼女の頭を掠めて飛んだ。彼女は緊と両手を握りしめた。そしてこう云った。
「私はよく涙を流したことがありました。そしてお祈りをしました。祈り乍らはっきりと私は神様を心に信じました。種々な苦しみや涙の嬉しいことを私に教えて下すったのは只神様ばかりでした。」
 何だか力強い感じが彼女のうちに湧いた。只泣いてみたいような心地がして言葉に力をこめた。「苦しめるものに神様は力を与えて下さいます。」
 二人はそれきり暫く黙っていた。かすかな音が、遠いような又近いような雨の音がしとしとと静けさの輪を画いて漂うていた。そうした沈黙は重い圧迫を二人の上に置いた。
「神を信ずる人は幸福です。」と青年は低い声で云った。
 それは彼女に皮肉な響きを伝えた。そして同時に強い淋しさを誘った。
「いえ幸福では……。」彼女は云った。そして何故か自分でも知らないでくり返した。「私は幸福ではありません。」
 その時突然青年は顔を上げた。そしてじっと遠い処を見つむるような眼付をした。
「ほんとうは祈祷《いのり》をし乍ら、同時に祈らるるものの心地にならなければいけません。」
 その意味ははっきりとは彼女は分らなかった。突然何か大きいものがぶつかったような気がした。
「神様が見ていられます!」となかばは自分に云ってみた。
「神なんかどうでもいい。」と云って青年は堅く唇を結んだ。
 彼女は彼が息を殺しているのを見た。眼を一つ処にじっと定めているのを。その頬にたまらないような淋しい陰影があった。
「何かお気に障ったことを申したのでしょうか?」と彼女はそっと問うた。
「いいえ、」と彼が答えた。「どうか悪くおとりになりませんように。何でもないんですから。」
「それならいいのですけれど……。」
 沈黙が続いた。青年は何かに思い耽っているように身動きもしなかった。それを見ると、彼女の心に深い処から謎《なぞ》のような不安が上って来た。でふと立ち上って、火鉢の火を何気なく囲炉裡の中に移した。
「寒い日ですことね。」
 青年はホッと溜息をついた。
「私もう帰りましょう。」と彼は云った。「どうか悪くお思いなさらないように。」
 まだ細い雨が降り続いていた。薄すらとした靄が午後の明るみに包まれて、その間を小さい雨脚が銀色に縫っている。大きく宿屋のしるしの入った傘をさして行く青年の後姿を、彼女は憫然《ぼんやり》として見送った。
 表をしめて足を返した時、彼女は何か物につき当ったような心地がした。頭の隅で青年の運命が悲しい形を取った。それは死というほどのものではなかったけれど、然し大
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