じっと思いを潜めている。ランプの光りが折々風もないのにゆらりと動いた。
「許して下さい。」と突然男が云った。「随分いろんなことをお饒舌《しゃべり》しまして。」
「いいえ私こそ。」と彼女は顔を上げた。その間彼女は自らも知らない深い思いの底に沈んでいた。
男女《ふたり》はじっと顔を見合せた。そして男が云った。
「私達はもうこれでお隙《いとま》致します。」
「あの今に……、」と云って彼女は立ち上った二人を驚いて眺めた。「女中が帰って来ましたらお送り致させましょう。」
「いえすぐ其処ですから。」
外には月が煌々と輝いていた。二人に蹤《つ》いて外まで出た彼女の心は、興奮したまま朗かに澄み切った。
凡ては潔《きよ》い静寂のうちに在った。月の光りは水銀のように重たい湖水の面に煙って薄すらとした靄に匂った。そして森や野や遠くの山まで一面に青白い素絹を投げた。それらの上に高く紫紺の空が拡がる。ところどころ星を鏤めた大空の中心に、銀色に輝く月が懸っている。
其処に佇んだ彼女の心には云い知れぬ杳《はるか》な思いが宿った。少しく離れて前に立っている二人を見ると幼い人達が誓の時になすように、小指と小指とを緊と握り合せている。渚には乗り捨てられた小舟が淋しく繋がれていた。
「ほんとに種々なことを申しましたけれど、」と青年が彼女の方へ向いて云った。「どうかお気になさらないように。」
「いいえそれは私の方から申すことです。」
「実は明日私達は帰る筈です。汽車の都合で朝早いものですから、或はこれでまたお目にかかれないかも知れません。」
彼女の心に冷たいものが入った。それでじっと青年の淋しい顔を眺めた。
「私達はまた屹度いつか此処へ来ることがあると思いますの。」と女が云った。
「ええどうぞまた。……お待ちして居ります。」
彼女の心は俄にどうにも出来ないような何物かに押えつけられた。そして切ない儚《はかな》さのうちに、初めて青年を見た日からのことをそれぞれに思い浮べた。
「それではこれで……。」と云って青年はちらと眉を動かした。そして黙って頭を下げた。
「私は何時までもこの湖水を守っていますから……またどうか……。」
女は一寸歩み出した足を止めてじっと彼女の顔を見たが、そのまま眼を地面に落した。そして低い声で、「さようなら。」
「さようなら。」
二人が去ったあと、彼女は其処に暫く立っていた。もう凡てが終ったと思った。清らかな月の光りと静かな湖水とは彼女の心を孤独にした。
月光に交って一面に銀の粉が降り来るような静けさを彼女は感じた。空から地に神秘が流るるを。そして自然に熱い涙が眼に湧いてきた。其処に未来の淋しい旅が映っていた。然しその淋しさは彼女の心に泣きたいような感謝の念を一杯に満した。で大空の下《もと》静に神を念じて両手を組んだまま其処に跪いた。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新思潮」
1914(大正3)年2月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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