無いに等しいと。そして私達は、故郷というものについてはっきりした感銘を持たぬ者の不幸を語り、人はせめて、田舎の自然のなかで、そしてなるべくは自然美の豊かな処で、幼年時代の一時期なりとも過ごすのが、幸福であろうと、そんなことを話し合ったのであるが……。
それは兎に角、故郷という感銘が、田舎では強く、都会では弱いのは、何故であろうか。田舎には自然の風物が豊かである代りに、都会には人事現象が豊かである筈である。故郷というものは自然の風物の占有するものなのであろうか。
然しながら、吾々成人者は、そうした故郷の他に、も一つ、精神的故郷とも云うべきものを持っている。この精神的故郷は、自然の風物の中にはなくて、人事現象の中に在る。而も、人生に対して真摯な態度を持する者は、宛も境遇の変化によって一の土地から他の土地へ移転しなければならない場合があるように、一の精神的故郷を去って他の精神的故郷を求める必要に迫られることがある。それは単なる豹変ではない。更に根本的な進展であり更生である。
そうした旅立ちに当って、苦難な道程に於て、人は偉大な観念や思想よりも、たといささやかながらでも具体的な何かを必要とする……一種の超人でない限りは。そしてこの具体的な何かを――エディプに於けるアンチゴオヌやラスコーリニコフに於けるソーニャの如きものを――発見するためには、卑怯であってはならないのである。
*
「僕があの女を真剣に愛したと云ったら、君は笑うだろうね。僕自身でも実は少々意外だったのだ。
「あの頃僕は、云わば精神的に旅に出ていた。従来の種々のものが崩壊して、而も新たな何物も発見出来ない、そういう状態にあった。万事が移りゆくのだ。だから僕自身から云えば、旅に出て始終歩き続けているようなものだった。そして足を留むる場所がどこにあるのやら、自分にも分からなかった。
「然しながら、僕は朗かだった。何物にも繋がれない自分自身を見出したからだ。人が憂欝になるのは、何物かに繋ぎ留られ、その緊縛に圧倒されそうな時にである。宿りのない旅を続けて、何物にも繋がれない場合こそ、本当の自由であって、自由は朗かさの別名に外ならない。過去は後方に薄れてゆき、未来は茫として見透しがつかず、そして晴やかに日が照っているのだ。仕事も、世間的顧慮も、一切を打捨てて、僕はただ朗かに歩き続けた。
「そういう時期が引続いた後、僕はふと、自分の精神の中に異様なものが澱んでいるのを見出した。大空に見入ってる時、大海を見渡してる時、心の中に澱むような何かだ。空虚だとも云えるし、苦悩だとも云えるし、翹望だとも云える。死[#「死」に傍点]のようなものだ。そいつを見出した時、僕は駭然とした。日の光は遠退いて、僕は薄闇の中に佇んでいた。然しそうした場合、人は同じ所に長く立留ることが出来るものではない。僕はまた歩きだした。もう浮々した軽やかな足取りではなかった。
「その頃だ、僕があの女に出逢ったのは。彼女も何かしら異常な場合にあったらしい。そして二人の間には、退引ならないものが生じてきた。それは或は僕の幻影だったかも知れない。僕達は互に藁屑を掴んだのかも知れない。然し幻影でも藁屑でも構わないではないか。そうだと分った時には、即座に投げ捨てるだけのことだ。だがそれまでは、幻影でも藁屑でもない。僕は自分の信念に誠意を持つのだ……。」
右は、或る男が私に語ったことである。私は彼の不敵な誠意を信ずるから、賛意を表しておいた。「悪霊」のスタヴローギンでさえ、ダーリアを――他の男との婚談を拒絶しなかった彼女、而も彼の最後の精神的看護婦と自認した彼女を――やはり最後に呼び寄せようとしたのである。ただ、彼にとってその女が自分の娘でなく或は妹でなかったこと、または「ソーニャ」であったことは、彼の幸か不幸か私の知る所でない。
精神的な第二の故郷を求める旅に出ることが、真摯な人には往々ある。その旅は苦難の道だ。砂漠を一人で旅するに等しい。その時、人を救うものは、日出の壮厳さや蒼空の深みや星の光などよりも寧ろ、オアシスの一掬の清水であろう。砂漠のオアシスは蜃気楼であることもある。それだからといって、蜃気楼[#「蜃気楼」は底本では「蜃気棲」]を恐るるのは今更に卑怯であろう。
コスモポリタンの傲慢と矜持も、私は知らないではない。精神的故郷を否定する境地も、私は知らないではない。然しながら、そういうものは、誰をも――ひいては文学をも――救うものではない。虚無の中に飛びこむのはよろしい。だが飛びこんだだけでどうなるものでもない。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
青空文庫作
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