。何故? の問題ではない。そうでなければならないのである。
朝鮮民族研究者の云う所に依れば、彼等の夢想が何であろうとも、その夢想をのせる中心地は、必ず朝鮮の故地だそうである。何故を問う余裕はない。ただ、そうでなければならないからである。
生きた民族には、己の土地を要する。
顧みて、私一個のことを云う。
私は、自分の生れ故郷に対して、殆んど愛着の念を感じない。年老いて死に瀕しても、故郷に帰って死にたいとの念は、今から想像した所では、殆んど起りそうにもない。私が愛着する土地は、自分が生活してる現在の土地である。
日本の土地を離れて、他国に住むと仮定しても、もしその土地に私の生活が根を下しさえすれば、私はその土地に愛着して、日本に帰りたい心を起さないかも知れない。
私の安住の地は、自分の生活が根を下してる処に在る。生れ故郷にあるのではない。
然しながら、日本民族全体が、己の土地を失って、世界に四散することは、たとえ彼等が各地で生活しようとも、考えても堪らないことである。日本民族の安住の地は、日本の故地に在る。
ここでも一歩先へ考えを進めてみる。
洞爺湖の鱒の幼魚を、十和田湖へ運んで、十和田の孵化場から放ったとすれば、恐らく彼等は、その孵化場へ産卵に上ってくるであろう。釧路川の鮭を石狩川に移住せしめたら、彼等は石狩川を己の生れ故郷とするであろう。
ユダヤ民族に、例えば印度の一部を与えたならば、彼等はその土地に民族として安住するであろう。朝鮮民族についても、同様であろう。日本民族としても、日本の故地を失って例えば亜米利加に土地を得るならば、其処に民族として定住するであろう。
然しながら、私一個人としては、安住の地は生活の地である。他人の土地であろうと、異人種の間であろうと、そんなことは問題でない。
個人は、自分の仕事――生活――さえあれば、其処に安住する。仕事――生活――を失った時に、根こぎにされる。民族は、自分の土地さえあれば、其処に安住する。土地を失った時に根こぎにされる。
茲に一言断っておきたい。個人の生活というも、結局は個人の土地ということになり、民族の土地というも、結局は民族の生活である、という説も出て来よう。そしてそれは、理論的には正しい。然し直接の感情からは少し遠ざかる。私が云うのは直接の感情に即してである。
さて、斯く云う私には民族
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