離婚するのは、いやですもの。」
「結婚して必ず離婚するとは、きまってやしないよ。」
「でも、離婚するようなことになったら、あんまり惨めだもの。いや、わたしあなたと別れるの、いやよ。」
 なにかしら、めちゃくちゃなのである。もっとも、彼女が一度結婚したことを私は知っている。彼女は東京へ出て来て、叔母さんのところから女学校に通い、それから、若くて結婚したが、まだ先方へ入籍もすまさないうちに、夫は召集されて戦死してしまった。彼女は叔母さんの家に戻り、ちょっとした恋愛火遊びめいたこともあったらしいが、それも立ち消え、彼女は加津美の女中になってしまった。過去の痛手がまだ心に残ってるのであろうか。私がそのことにふれると、彼女は私を睥みつけるようにして言った。
「わたしはこれまで、誰も愛したことはありません。ただあなただけよ。」
 或いは、秋田の田舎に幼な馴染みの男でもあって、世の中を見限り、その男に嫁ぐつもりでもいるのか。
「いいえ、そんなひとは誰もありません。」
 私を睥みつけるようにして言う。
「それでは、結婚はだめだとしても、一緒に暮すことにしてはどうだろう。アパートかなにか見つけて、一緒に住み、僕は会社に勤め、君は加津美で働く……。」
「そんな面倒なことしなくても、わたし、今のままでいいわ。」
「今のままではうまくいかないと、君が言い出したんだよ。」
「だから、くにへ帰ろうかと思ったの。」
「然しね、くにへ帰りっきりに帰るのは、僕と別れることになるよ。まさか、僕まで一緒に連れていくつもりじゃあるまい。」
「あなたに百姓は出来ないわ。わたし一人で帰るの。」
「どうも、君の言うことは分らん。いったい、どうするつもりなの。僕と別れたいんなら、そう言ってくれよ。」
「いや、別れたくないのよ。あなたとは、もう別れたくない。それが、わからないの。」
 炬燵の上につっ伏して、彼女は泣きだしてしまった。
 私はもてあました。全くめちゃくちゃなのだ。何の筋道も立ってやしない。ヒステリー……或いは気が変なのか。然し、これまでそんなことは一度もなかった。彼女はいつも控え目で、内輪にしか物を言わず、駄々をこねることがなかった。それが、どうしたというのであろう。ウイスキーにさほど酔ってるとも見えなかった。むしろ私の方が酔いかけていたのだ。
 突然、一つのことが頭に閃めいた……妊娠。
 私は彼女の肩を引き寄せて、その言葉を耳に囁いた。
 彼女はぎくりと身を震わし、顔を挙げ、袖口で涙を拭いて、強く頭を振った。
「ばか。」
 頬をぱっと紅らめ、それを押し隠すかのように私の胸へ寄り縋ってきた。
 私にはもう到底、理解が出来ない。私の思いも及ばないようなものがあるのであろう。彼女は私の胸へぐんぐん寄りかかってき、全身の重みをぶっつけてきた。乱暴だ。不用意に私は転げ、彼女も転げた。転げながら、私の胸をどんどん叩いた。その手をはねのけて私は起き上った。彼女も起きて、ウイスキーをあおった。
「松井さん!」
 眼に病的とも言える陰を宿して、唇を少し歪めている。
「あなたの頬っぺたをなぐったら……どうなさる。」
 愚問には答えないに限る。私は黙って、ウイスキーを飲んだ。
「わたし、もうくにへ帰るのはやめます。その代り、あばれてやるから。」
 眼にいっぱい[#「 眼にいっぱい」は底本では「眼にいっぱい」]涙をためて、洟をすすった。
「癪にさわる。……あなたのおかげで、わたし、だめになっちゃった。……どうして下さるの。」
 いつもとまるで調子が違って、酔狂の沙汰だ。
「いいわ、あばれてやるから。」
 じっと眼を据えて、飲み干したグラスを卓上にころがし、指先でぐるりぐるり動かしている。
 私は仰向けに寝ころがった。
「もうわたしのことなんか、どうでもいいのね。わかりました。そんなら、帰ります。」
 その言葉が、ふいに、私の憤りを誘った。
「愛想づかしなら、もうたくさんだ、帰るなら、帰ったらいいじゃないか。」
 ちょっと、ひっそりとなった。私は腕を眼の上にあてた。何も見たくなかった。
「わかりました。帰ります。」
 こんどはいやに静かな声だ。そしてやはり静かに、彼女は立ち上って、室から出てゆき、静かに階段を降りていった。
 私は寝そべったまま、眼をふさいでいた。体がしきりにぴくぴく震えるのを、じっと我慢した。それから、俄に飛び起きた。耳をすましたが、何の物音も聞えなかった。彼女は影のようにすーっと去ってしまった、という感じだった。待ってみたが、戻っては来ない。
 私はウイスキーの残りを飲み、炬燵の上に寝具を投げかけ、額までもぐりこんだ。もう夜が更けていたが、眠れはしなかった。

 翌日の午前中、私は加津美のまわりを、遠巻きにぐるぐる何度か歩き廻った。まだはっきり決心がつかなかったのだ。とにかく澄江に逢わなければならなかったが、電話をかけるのも気が進まないし、朝から訪れるのもへんなものだし、もし彼女が帰っていなかったら恥さらしだ。
 今日になってみると、なんだか世界が変った感じである。感情も言葉もはっきりとは他人と通じ合わない孤独さ、而も多くの冷淡な視線だけを身に受けてるという佗びしさ、そういうところへ再び突き落された気持ちなのだ。澄江との愛情に包まれて、私はいい気になっていたが、澄江を失ってしまうと、私は以前にも増して一人ぽっちだった。なあに、一人ぽっちだって構うことはない。三十三歳まで生きてきたのだ。年若な女の感傷では、三十三の死を空想することもあるが、私としては……そこが実はぼんやりしていた。
 私は昨夜、夜通し、妄想に耽った。夢現の界目での妄想だった。そして白々と夜が明けそめる頃、はっと眼が覚める思いに突き当った。澄江のことだ。彼女はどうしてあんなに取り乱したのか。私も彼女も可なり酔っていたようだが、記憶に残ってることを一々跡づけてみると、私は重大なことを見落していたような気がする。男嫌いなどということについて、初めいろいろ甘っぽいことを考えていた私は、浅薄極まる馬鹿だった。澄江は実はぎりぎりのところで生きていたのではなかったろうか。そして昨夜のめちゃくちゃは、最後の抵抗の試みではなかったろうか。肉体を投げ出し心を投げ出した後の、最後の抵抗。そんなものが女にあるかどうか私には分らないが、それより外に解釈の仕様はない。あれは、愛想づかしなんかではなかったんだ。分らなかったものだから、私は腹を立てたものらしい。らしい、と言うより外、私には自分のこともよく分らないのだ。
 とにかく、も一度澄江に逢いたい。澄江なしには、私は生きてゆけないかも知れない。素っ裸にされて、打ち震えてる、私自身の姿が見える。
 加津美の前は通りかね、遠巻きにぐるぐる歩き廻った。十二時になったら、昼食をたべに来たのだと、ごまかせるだろう。まだ一時間ほども合間があったが、ただ加津美のまわりを歩くことだけで気が安らいだ。
 瞬間、私は顔に閃光を受けた感じで、物陰に身を潜めた。澄江なのだ。確かに澄江だ。臙脂色の半コートをき、白足袋の足をさっさっと、わき目もふらず歩いてゆく。なにか一心に思いつめてるらしく、自転車が来てもよけようとしない。
 何処へ行くのであろうか。
 私はその跡をつけた。なにかに憑かれたような気持ちだ。
 電車通りで彼女は立ち止った。電車が来て、彼女はそれに乗った。私は反対側から乗った。あまり込んでいず、彼女に見つかる恐れもあったが、私はもう度胸をきめていた。スプリングの襟を立て、ソフトを目深にかぶり、素知らぬ風を装った。乗換場ではさすがに困ったが、見つからずにすんだ。全然と言ってよいくらい、彼女はわき目をしなかった。彼女の方でも、なにかに憑かれてるかのようである。
 次第に私の胸は騒ぎだした。彼女は私の家の方へやって来るのだ。だが、やがて私は、ふしぎと、平静な気持ちに落着いた。彼女が今朝再び私を訪れてくることは、前から分っていたような思いがするし、私は彼女を迎いに行ったもののような思いもする。
 彼女は電車から降りて、私の家の方へ曲って行く。もう遠慮はいらず、私はすぐ後に随った。
 表の格子戸を開ける前、彼女はちらと振り向いた。私の顔をしげしげと、目ばたきもしないで眺めた。
 突然、私は涙ぐんだ。それを押し隠して言った。
「早く、室へ行きましょう。」
 室へ通ると、彼女はコートを脱ぎ、丁寧なお辞儀をした。
「どこへ行っていらしたの。」
 私は頬笑んだ。
「加津美の近くをぐるぐる歩いていたよ。すると、君の姿が見えたので、跡をつけて来たのさ。」
「そう。」
 彼女も頬笑んだ。眼のうちが凹んで、頬が蒼ざめている。
「とにかく、炬燵に火をいれよう。」
 寒くはなかったが、やはり炬燵の方がよかった。茶をのみ炬燵にもぐって、私は彼女の指先を握りしめた。少し冷りとするその指先が、私の心に釘のように刺さってきて、もうどうにも掌から離せなかった。
 彼女の眼を見入りながら、私は言った。
「出かけようか。」
「ええ。」
「遠くがいいね。」
 彼女は頷いた。
 それは、昨夜ではなく、前々からの、約束事だったらしい。そしてそれより外に、どうにも仕様がない感じだった。
 私たちは平静に簡潔に打ち合せをした。私にも少し金があり、彼女にもだいぶあった。手荷物は彼女の小型のスーツケース一つ。置手紙などすべて無用……。
 打ち合せがすむと、私たちは外に出て、軽く酒を飲み、楽しく食事をした。それから、彼女は加津美へ戻り、私は室に帰ってあちこち整理した。
 その晩、私たちは上野駅で落ち合って、汽車に乗った。ふしぎなことに、なにかこう嬉しくて、もう少しも孤独ではなかった。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「世界春秋」
   1950(昭和25)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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