をつけた。なにかに憑かれたような気持ちだ。
電車通りで彼女は立ち止った。電車が来て、彼女はそれに乗った。私は反対側から乗った。あまり込んでいず、彼女に見つかる恐れもあったが、私はもう度胸をきめていた。スプリングの襟を立て、ソフトを目深にかぶり、素知らぬ風を装った。乗換場ではさすがに困ったが、見つからずにすんだ。全然と言ってよいくらい、彼女はわき目をしなかった。彼女の方でも、なにかに憑かれてるかのようである。
次第に私の胸は騒ぎだした。彼女は私の家の方へやって来るのだ。だが、やがて私は、ふしぎと、平静な気持ちに落着いた。彼女が今朝再び私を訪れてくることは、前から分っていたような思いがするし、私は彼女を迎いに行ったもののような思いもする。
彼女は電車から降りて、私の家の方へ曲って行く。もう遠慮はいらず、私はすぐ後に随った。
表の格子戸を開ける前、彼女はちらと振り向いた。私の顔をしげしげと、目ばたきもしないで眺めた。
突然、私は涙ぐんだ。それを押し隠して言った。
「早く、室へ行きましょう。」
室へ通ると、彼女はコートを脱ぎ、丁寧なお辞儀をした。
「どこへ行っていらしたの。」
私は頬笑んだ。
「加津美の近くをぐるぐる歩いていたよ。すると、君の姿が見えたので、跡をつけて来たのさ。」
「そう。」
彼女も頬笑んだ。眼のうちが凹んで、頬が蒼ざめている。
「とにかく、炬燵に火をいれよう。」
寒くはなかったが、やはり炬燵の方がよかった。茶をのみ炬燵にもぐって、私は彼女の指先を握りしめた。少し冷りとするその指先が、私の心に釘のように刺さってきて、もうどうにも掌から離せなかった。
彼女の眼を見入りながら、私は言った。
「出かけようか。」
「ええ。」
「遠くがいいね。」
彼女は頷いた。
それは、昨夜ではなく、前々からの、約束事だったらしい。そしてそれより外に、どうにも仕様がない感じだった。
私たちは平静に簡潔に打ち合せをした。私にも少し金があり、彼女にもだいぶあった。手荷物は彼女の小型のスーツケース一つ。置手紙などすべて無用……。
打ち合せがすむと、私たちは外に出て、軽く酒を飲み、楽しく食事をした。それから、彼女は加津美へ戻り、私は室に帰ってあちこち整理した。
その晩、私たちは上野駅で落ち合って、汽車に乗った。ふしぎなことに、なにかこう嬉しくて、もう少しも孤独ではなかった。
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「世界春秋」
1950(昭和25)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年12月30日作成
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