。一本の巨大な幹だけが残りました。それが、上方から順次に、三段に伐り倒されました。眼通り四抱えほどの大木のこととて、足場を組んで鋸で挽くのが主な仕事でした。切られた幹は轆轤で吊して、たやすく地面に転がされました。
柴田巳之助は病床に寝たまま、椎の木の方を眺めてばかりいました。椎の木が一本の巨大な棒となり、それが三分の一ほど低くなる頃には、巳之助ももう眺めるのに倦きたようでした。あまりに単純に事が運んでいたからでありましょうか。彼はただ鋸のかすかな音や人声に耳をすますきりで、それにもやがて無関心らしくなりました。眼がある以上はそれをどうにかしなければならないという風に、ぼんやり宙を見やったり、瞼をつぶったりしていました。うとうと浅い眠りに入ることが多くなりました。
体力の衰えが急に目立ってきました。それと共に、重圧めいた苦悩も静まっていったようでした。額には仄かな和らぎの色が浮んでいました。そしてそれらのすべての彼方に、或る内心の一点への想念の沈潜とでもいうべき気配が見えました。医者は訪客との面会を禁じ、絶対安静を命じていました。
椎の木の幹が全く伐り倒された日、幹夫は父の側に行って、黙って坐りました。巳之助は弱々しい微笑を浮べました。
「すっかり済んだかね。」
「済みました。」
巳之助は暫く黙っていたあとで、言いました。
「椎の木などを、へんに問題にして、少しおかしかったよ。」
「別に問題になすったわけでもありますまい。」
巳之助はそれには答えませんでした。然し、やがて、ちょっと布団の上に坐って外を眺めたいと言いだしました。幹夫と看護婦は眼を見合して、言うがままにさした方がよかろうと了解しあいました。
看護婦に援け起されて、巳之助は布団に坐りました。幹夫は縁側の硝子戸を開けました。外は静穏な日和でした。
斜陽が流れていました。庭の外れ、崖の上、一面に斜陽が流れ注いでいました。そこにはもう椎の古木はなく、晴れやかな空間がありました。その方へ、巳之助はまぶしそうに眼をやり、次でじっと瞳を据えました。そして二度大きく頷きました。
「うむ、実によい……まったく……。」そして彼はもう一度頷きました。そしてなおじっと見つめていましたが、突然、眩暈がするとかのように、顔を伏せ震える手をあげて額を押えました。幹夫と看護婦はあわてて、彼を床に寝かしました。
それから二
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