て、巳之助は我に返り、床に就きました。湯たんぽを入れた足先になお冷たい感じがあり、胸元に熱苦しい感じがありました。それを意識から追い払うようにして、椎の木をじっと眺めました。裸の枝、黒ずんだ巨幹、それが中空に突き立ってる静けさのうちに、枯死の寂寥と寒冷とが籠っていました。
 ――俺はあの椎の木に、甘えてるのであろうか、それとも抵抗してるのであろうか。恐らく両方だ。死を予感する思いは、あれに甘え、その予感を克服しようとする思いは、あれに抵抗する。両者が融合する安らかな境地は、どこに見出さるるであろうか。あれを伐り倒した後の空間に、果してそれが見出さるるであろうか。それはちょっと予想のつかない空間だ。驚異を秘めてるような空間だ。
 ――あの椎の木には空間が足りなかったと、幹夫は言った。或はそうであろう。火災に焼けたというよりも、空間の不足に窒息したのだとも言える。椎の木ばかりではない。俺の生涯にも空間が足りなかった。官界にも政界にも空間が足りなかった。殊に俺が最も働いた大政翼賛会には空間が足りず、今から顧みても息苦しいようだった。現に俺の家だって空間が足りない。千代子一家の者が同居しているし、中村家の者も同居している。一日中、互に鼻を突き合さんばかりの有様だ。日本全体に空間が足りない。然し、この種の空間は、単に空気と言ってもよいほどのものに過ぎない。俺が今想見している空間は、なにか神秘な、深いそして高いもの、生命とじかに関わりのあるものなのだ。それが、あの椎の木を通して、そこに、あすこに在る……。
 柴田巳之助はそこを覗きこんで、昏迷した心地になりました。そしてうとうとと、夢とも現とも分らない状態に沈んでゆきました。
 彼が安らかに眠ってるものと思って、看護婦は席を立って、ちょっと母屋の方へ行きました。
 それと殆んど入れ代りに、千代子の娘の美智子が、そっと縁側からはいって来ました。
 髪をおかっぱにした、眼の大きな、この子供は、お祖父さまに馴れ親しんでいました。お祖父さまが病気になって寝ついてからも、よく病室にやって来ました。病室にはたいてい、なにかおいしい物がありました。
 いま、お祖父さまは、一人きりでした。静かに寝ていました。その禿げた頭だけが、枕の上に、つやつやと光っていました。それを、美智子はふしぎそうにじっと眺めました。
 やがて、美智子は寄ってゆきました
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