陸地の影も見えない遥かな沖で、鱶や鮫のいる潮流を探し索めて、激浪のなかを彷徨した。見つけると、縄のように太い釣糸を投げた。餌は鰯を使った。口に針を引っかけた一丈に近い大魚は、釣糸を断ち切ろうとして、気狂のように波間を浮き沈みしながら、躍り、猛然と身を蜿らせ、尾と鰭で強く水面を叩き、白い腹を見せて空中に跳ね上り、船を傾け、引き摺り、グググーッと水面深く沈んで行った。
 鱶釣りの発動機船は、激浪のために、よく転覆した。そして、乗組みの漁夫たちは、激浪に呑まれ、鱶の餌食となり、そのまま行方知れずになり、また手足を喰い千切られた死体となって海岸のどこかに漂着した。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](「海岸埋立工事」―藤沢桓夫)
 比較的優れた作品を探して、私は右の一節を得た。がこの一節においてさえも、作者の眼が別なところに向けられていて、情景の――ひいては漁夫の生活の――にじみ出し方が甚だ稀薄なのを、嘆ぜざるを得ない。全景が可なりよく捉えられてはいるが、情景の――生活の――個性的濃度が乏しい。そしてそれはひいて芸術に遠いことを意味する。
[#ここから2字下げ]
 カムサッカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツガツに飢えている獅子のように、いどみかかってきた。船はまるで兎よりもっと弱々しかった。空一面の吹雪は風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきた。然し時化は止みそうもなかった。
 仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆は蠶のように各の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった船は、背に食いついている虻を追払う馬のように、身体をヤケに振っている……。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](「蟹工船」――小林多喜二)
 この一節を読むと、「ように」という比喩がひどく多いのが目につく。そしてこの比喩は、実際の情景を鮮明ならしめるよりも、むしろそれをぼかし弱めるのに役立っている。
 なぜそういう結果を来したか。それは、「蟹工船」全篇の出来栄えから考えても、決して作者の才能の乏しい放ではない。対象の把握の仕方が足りない故ではない。病弊は作者の態度そのものにある。描写よりも説明が主となってるところにある。そして説明が主となったのは、目的意識があまりに露骨に働いたからに外ならない。
[#ここから2字下げ]
 百二十五人の女工が一列に並んだ。みんな腰の周りだけに四角い布を垂れていた。
 ――前イ――
 と四十面の女工監督が気取って号令した。
 女工たちは汗と肌の匂いを発散させながら歩きだした。
 乾燥室はその性質上から二階にあったので階段を降りねばならなかった。梯子段の下には高さ一尺の横板が立ててあった。それは「オマタギ」と称ばれていた。
 女工監督が横板と女工たちの膝前に目をそそいだ。
 一人一人の女工は、体操をするように股を水平に上げて横板をまたがせられた。それは紙幣や切手などを何処かにかくしていないかと検べる為であった。
 向うの現場の階段下でも素裸の男工たちが一尺五寸の横板をまたがせられていた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](「紙幣乾燥室の女工」――岩藤雪夫)
 この「オマタギ」の一節は、決して吾々の眼にその情景を彷彿させはしない。ただ吾々の観念に訴えるだけで、感性に何物をも伝えない。作者は他の目的意識に囚えられて、この情景を素通りしてしまっている。「オマタギ」の情景などはつまらないというならば、それまでのことであるが、然し、プロレタリア・レアリズムは、観念にのみ訴える説明の病弊を救わんがために説かれたものではなかったか。
 露骨な目的意識は、作品を公式化し、方程式化し、具体的描写を離れて観念的説明に陥らせる。そして作中の人物を、生命のない傀儡たらしめる。
 アプトン・シンクレアは、その小説「資本」のなかで、主人公ゼッド・ラッシャーを方々へ引張り廻して、吾々に種々の社会面を見せてくれる。牧場地のこと、甘庶栽培地のこと、それから或る大学校のこと、富豪ワーナー氏の家庭のこと、次に石油発掘から会社経営のこと、財界のこと……。そしてそれはみな、近代の資本主義が如何様に構成されているかを説明せんがためであり、その内部のからくりを暴露せんがためにである。そして主人公ゼッド・ラッシャーは、作者の単なる傀儡にすぎない。この傀儡を操ることによって、作者は吾々に資本主義社会の欲望と相貌とを示してくれる。それは恰度、ヴィクトル・ユーゴーがその小説「レ・ミゼラブル」のなかで主人公ジャン・ヴァルジャンという傀儡を操って、ブルジョア社会の道徳を解剖し暴露したのに似ている。「レ・ミゼラブル」のなかに書かれてることは、ブルジョア社会の道徳的説明と人道主義的正義感の高唱とであり「資本」のなかに書かれていることは、資本主義社会の経済的説明と階級意識の示唆とである。そして主人公のジャン・ヴァルジャンもゼッド・ラッシャーも、作者の頭脳的傀儡であって、人間としての生きた心臓はごく僅かしか持たない。
 こういう方向に文学が進む時、遂には文学から生きた性格が――人間としての生活感を具えた性格が――駆逐される。そして文学は論文や統計や記録に近づいてゆき文学としての解体の途を辿る。
 文学が解体したとて、一向差支えない。「レ・ミゼラブル」や「資本」はそれ独自の価値を持っている。しかしながら、それほど独自の価値を持たない非文学的文学は結局一の顛落に過ぎない。そしてこの顛落から文学を救って、文学として価値を持たせるには、新らしい性格の描写によるのほかはない。文学者の視野においては、社会的変革ということは、生活様式や社会組織の変化などよりも、新らしい人物性格の発生を意味する。婦人解放の機運は、イプセンにノラを描かせた。富裕なロシヤ貴族の遊惰は、ゴンチャロフにオブローモフを描かせた。自由主義の思潮は、ツルゲネーフにバザロフを描かせた。そして新らしい性格は目的意識に支配された公式的作品の中におけるよりも、そうした意識に囚われない作品の中により多く見出される。アンリ・バルブュスの作中の人物によりも、ルイ・フィリップやフランシス・カルコの作中の人物に、吾々はより多くプロレタリアの真の姿を見出す。
 だが、新らしい性格を描くことは、如何なる時代の如何なる文学にも共通の肝要事である。プロレタリア文学が開拓した特殊の領土は他のところにある。
[#ここから2字下げ]
 真夜中すぎに、沖で、音が聴えた。トン・トン・トン・トンと――たしかに、発動機の音だ。それが、聴えた。近づく気配だった。部落全体の者が、ワーッと叫び声を上げて、吹雪のなかを、浜辺へ、駆け出した。そして、何も見えない真暗な沖を見ようとして、焦り、耳を凝らした。そして、待った。が、たしかに聴えた機械らしい音は、いつの間にか、聴えなくなっていた。が、みんなは、吹雪に顔を打たれながら身体を固くして、ゾクゾクと奈落へ沈んでゆく気持とたたかいながら、立ちつくした。――そして、みんなは、先刻のあれは、遠い沖を走っている太平洋航路の汽船の汽笛が風の加減で、流れてきた音なのだ、と理解した。彼らの足もとには波が暗く呟いていた。次の瞬間、部落全体が、ワッと、大きな声を上げて、波打際で、泣いた。その時は、ほんとうに、部落全体が、ワッと、大きな声を上げて、泣いた。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](「海岸埋立工事」――藤沢桓夫)
 これは鱶釣りの発動機船が沖で遭難して戻って来ないのを、部落の人々が待ちつくしてる場面である。ところで、右の一節には、表現の深みにおいて至らぬ点を持ってはいるが、部落全部が一つの一体として無理なく描かれているところに、プロレタリア文学に対する或る暗示がある。何等かの集団なり階級なりを一体として描き、それに一つの生活的情感を持たせることは、それがたとい階級闘争のためになされたものであろうとも、文学における新たな領土の開拓たることを妨げない。そしてこれは前に述べた「ユナニミスム」の見解とおのずから相通ずるものであって、作品の上にはほぼ似寄った結果を齎す。
 人間のそれぞれの集団のうちにその集団独自の生命や生活を見出そうとする「ユナニミスム」の見解や、いわゆる戦争文学の団体行動を基本とする描写法や、プロレタリア文学の階級的固執などは、各個人を解消し包括して一体となっている群衆の魂を描出するという、新たな領土を文学に提供する。
 それと共に、プロレタリア文学は、その階級闘争の実践的イデオロギーにおいて多種多様であり、且つ、唯一階級への社会還元が実現された暁には当然消滅すべきものではあるが、そしてまた、それが強権主義の陣営内にあっては如何に歪曲されるかも上述の通りであるが、然しながら、強烈なる生活意欲を文学に盛ることに於て、そして作者に新たな社会的関心を持たせることに於て、文学に特殊な生気を吹きこむものである。そしてこの見地から見ると、あくまでも個人に固執して、個人の精神内部に新たな世界を見出した心理的探求の文学は、畢竟、社会的生命を失いかけたブールジョア文学が最後に見出した逃避所であるかも知れない。或はそうでないかも知れない。それは、見る人の観点が、個人に立つか社会に立つかによって定まる。

      将来への希望

 以上、私は現代小説の趨勢を大体述べたつもりである。そして趨勢に――傾向の推移に――主として眼を止めたために、その中軸――胴体――に言及することが少なかったのは止むを得ない。現代小説の中堅的胴体とでもいうべき作品や作家、即ち、最も広く人を引きつけてる作品や最も主立った作家などについて、殆ど沈黙を守ったことに、読者は不審を懐かれるかも知れない。然しその中堅的胴体なるものは、いわば現在では不動の状態にあって、全体的傾向の推移には関係の少いものであるし、且つ、少しく文芸に関心を持たるる読者には馴染の深いものであって、僅かな紙数のうちにわざわざ言及する必要はあるまいと思ったのである。
 それに実は、全体的傾向の推移を述べながら、私は一つの現象を殊に強調したかったのである。それは在来の見解によるいわゆる小説が解体の方向を辿ろうとも、それを顧みずに、小説なるものを吾々の実生活に近づけ、生活感を豊富に注ぎこもうとする傾向である。感覚的探求は新らしい眼で現実を見直すことを要求し、心理的探求は個人生活の相貌を直接に表現することを要求し、社会的見解は群衆の魂の叫びを響かせることを要求する。そしてその手段方法のうちに、幾多の危険があり、文学的歪曲の恐れがあることを、私はわりにくわしく説いてきたつもりであるが、然し、全体として小説のこの傾向は喜ばしいことである。なぜなら、それは、生活から遊離しようとする文学を生活に引戻すことであるから。
 自然主義が行きづまって以来、文学は生活から遊離して、生活意欲を帯びることが甚だ稀薄になってきた。とともに、資本主義の行きづまりは、社会全般を一種の神経衰弱的焦燥に陥れ、階級闘争の尖鋭化と生活的停滞層の拡大とを招いて、或は文学を顧みる余裕なからしめ、或は文学を娯楽物化しようとした。その全体の結果として、文学は実生活からの逃避所となる傾向にあった。
 いわゆる通俗小説は、読者に甘えて、そういう逃避所を提供するものである。通俗小説は作者の生活意識や生活意欲を盛ったものではなくまた読者のそれらに訴えるものでもない。通俗小説が読者に流させる涙、読者の胸にそそり立てる感情、読者の頭にわき立たせる夢想や空想などは、読者をしてその実生活を忘れさせ、娯楽的逃避所に遊ばせる以外の、何物でもない。そしてそれは、真の小説から――文学から――芸術から――遠いものである。芸術は吾々の実生活から咲き出した花でなければならない。芸術家は生活的病人の逃げこむ病院を設計するものであってはならない。
 娯楽的逃避所から生活
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