節を引用してみよう。――
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……夕方であった。光は太陽と共に西へ立戻るために、事物から離れかかっていた。事物とその光線とが見分けられない昼間のように、そんなに密接に光りはくっついてはいなかった。少し離れて浮んでいて、事物の息が持ちあげてるヴェールのようだった。
……家々にはランプがともされていた。窓掛が引かれてるにも拘らず、(外から)内部が見えた。なぜなら、昼間は、人家が街路を見街路へ思いを向けているが、晩になると、街路の方が人家を見ランプへ思いを向けるのである。
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こういう一節をよむと何等まやかしの組立もないしっとりと落付いた或世界が、ほのかに感ぜられる。これは単なる思い付や単なる感覚による描写ではない。実際この作品は、個人と社会、個物と万象、その間の交錯関係、そんなことが主題となってるものである。そして右のような描写筆致は、そこから自然に生れてきたものである。
感覚的探求は、何等かの創作態度の裏付があって、初めて有力に生かされる。とともに、新たな創作態度には、必ず新たな感覚的探求が伴う。芸術は、理性的な世界によりも、より多く感性的な世界に属する。
心理的探求
新らしい感覚で現実を見直すということは、干乾びた芸術を新鮮にする第一条件ではあるが、更に外に現われた可見的なものに止まらずに、その内部にまではいりこんでみようという努力がなされる。それが人間を対象とする時には、人間の内部生活――精神生活にまでふみこむことになる。そうして人間の内部を覗いてみると、如何に雑多な情意の錯綜がそこにあるか、如何に奥深い世界がそこに横たわっているかに、今更ながら驚かされる。その世界を探求し闡明しようとするところから、心理主義の小説が生れる。
固より、如何なる小説でも、心理を全然無視したものはない。人間は心意の動きによって行動する以上、人間を描くに心意の動きを除外することは出来ない。ただ、自然主義が外部の現われを主として辿るのに反して、心理主義は内部の心理を直接に描こうとする。自然主義が外部から人間を見ようとするのに反して、心理主義は内部から人間を見ようとする。
こういう心理主義は、古くからあったもので、あらゆる時代に存在していた。そして現代の新らしい心理的探求から生れてきた心理主義とは、全く面目を異にしている。どういう風に異なるかを見るには、従来のいわゆる心理解剖小説のことを一言しておく必要がある。
心理解剖小説は、近代になって極度の精緻さを来した。例えば、吾国によく知られてるドストエフスキーやブールジェの小説はそれである。
ドストエフスキーは心理解剖ばかりの作家とはいえない。彼の小説は、その構想の上にロマンチックなところが非常に多く、細民街の貧しい人々の描写には深刻な写実味が豊かであり、虐げられた人々の生活の叙述には一種神秘な心霊的な光輝が漂っている。けれども、例えば「罪と罰」などのような作品は、結局心理解剖を主としたものといってよいだろう。そしてブールジェの方は、純然たる心理解剖作家である。
ところで、それらの作家の作品において、第一に目立つことは、その心理解剖が人間の行為を説明せんがためのものであるということだ。とこういえば、或は可笑しく聞えるかも知れない。すべて芸術上の種々の態度や方法は、それ自身が目的ではなくて、或は美を目的とし、或は何等かの解決を得るのを目的とする。だから心理解剖もそれ自身が目的でなく、即ち解剖のための解剖ではなくて、説明のための手段であることに、別に不思議はない。然し、実は、それが人間行為の説明のための手段であるところにこそ、現代の心理主義と異なる要点が潜んでいる。
その要点にふれる前に、一応、説明のための心理解剖がどういう結果を来たしているか、ドストエフスキーの「罪と罰」とブールジェの「弟子」とについて、概説してみたい。
ドストエフスキーの「罪と罰」は、主人公ラスコルニコフが金貸の老婆を殺害することが、全篇の中心であって、あらゆる事柄がその一事に集中されている。大学生ラスコルニコフは、自分の学業を終えるために、また母と妹の貧しい生活を補助するために、多少の金を得たいと始終考えている。妹は自分の身を犠牲にして賤しい金持の男と結婚しようとする。また彼の愛するソーニアという少女の一家は、想像に絶した貧困のどん底にある。彼はますます金を欲する。そして不正な金貸を業としてる老婆を殺害しようとする。彼はその殺害を自ら弁護するために、唯物論的思想に頼る。人間は優者と劣者との二つに区分されるものであって、一般の道徳的法則は、優者に対して――例えばナポレオンの如き偉人に対して――何等の拘束力をも持つものでない、というようなことを論証しようとする。従って、彼ラスコルニコフを生かすためには虱のような老婆一匹をひねりつぶしても構わないと結論する。そして彼は遂に罪を犯す。
ところで、こういう風に種々の事情をつみ重ね、種々の理論をふりかざしながらも、ラスコルニコフをして老婆を殺害させることに作者が如何に困難を感じたかが吾々読者にははっきり分る。そして殺害後のラスコルニコフの自責や悔恨を述べるに当って、作者の筆が如何に平易に走っているかがはっきり観取される。
そこで、結論をいえば、ラスコルニコフのような真面目な青年は老婆を殺害してもその金を盗み出すことが出来なかった如く、元来老婆を殺害出来るものではない。彼を殺害行為に導くために作者が如何に困難を感じたか。そして殺害後の悔恨を述べるのに作者が如何に慰安を感じたかが、すでに右のことを証明している。そこでこの小説は、あり得べからざる殺害行為を説明せんがための、精緻な深刻な心理解剖である。人間はこんな風に人を殺すものではない。それがかりに殺したとしたら、こんな風であるかも知れない。
ブールジェの「弟子」は、或る道徳的な意図を以て書かれた小説であって、決定論者シクストの著書が、純情な青年を如何に誤らせるかを示したものである。がその中心は、この青年が師の理論を実験せんがために、一人の令嬢を誘惑して、恋愛心理の細かな記録を取り、遂に情死の場面にまで導き、彼女を一人自殺させるに至るまでの、愛欲と理智との紛糾を描いたものである。そして特に目立つのは、この青年の理智的な恋愛解剖が精妙を極めてるのに比してそれを裏切る本能的な愛欲が如何にも生彩に乏しいことである。そして作者自身、令嬢の兄の行動に――情意と行為との世界に、或る郷愁を感じるらしいことである。
そしてここでも、一足とびに結論をいえば、この小説はあり得べからざる恋愛の精妙な心理解剖である。主人公ロベールの一人きりの思索については、作者の筆は自由にのびているが、恋人シャルロットとの二人の場面については、作者の筆は渋りがちである。若い男女はこんな風に恋愛するものではない。それがかりに恋愛したとしたら、こんな風であるかも知れない。
「罪と罰」や「弟子」のような作品が、文学上の名作であることには、異議はない。名作たるだけの多くの資格を具えている。が然し、ただ一つ吾々の見遁してならないことがある。それは仮想の上に成立ってる作品だということである。
仮想という語を広義に解釈すれば、あらゆる小説には仮想がある。特定な環境や人物や事件など、一篇の物語を成り立たせる条件は、一つの仮想であるといってもよい。然し私が前にいった仮想というのは、現実そのものの仮想の謂である。人形師が生きた血液の通わない人体を拵えあげるように、生きた情意の脈打っていない魂を作者が拵えあげてることをいうのである。
科学の進歩が人造人間を拵えだしたように、心理解剖の進歩は各種の人造人間を拵えだした。そうまでなった所以は、この心理解剖が全然説明のためのものであって、説明のための説明のあまりに、知らず識らず、現実の仮想にまでふみ出してしまったからである。
ところが、現代の心理的探求は、それらの心理解剖からメスの使い方を習得しながら、全く新らしい方向へ踏み出した。人間の行動を――或は人間を――説明せんがための心理解剖から、人間の精神界を――内部の世界を――描写せんがための心理的叙述となった。
説明のためから描写のためへ、解剖から叙述へ、この変化は非常な飛躍であって、全く面目を異にする作品を生み出す。
この変化には、哲学的な思想的な影響を無視するわけにはいかない。
簡単にいえば、自然主義が行きづまって各種の探求が文芸界になされたと同様に、自然主義の基礎ともいうべき唯物的実証論が行きづまった時、思想界にも各種の探求がなされた。殊に人間の意識外の世界について、特殊の研究がなされた。シャルコーは催眠術や暗示について研究を進め、覚醒時において全く意識されない観念を頭脳の中に据え得ることを証明した。リボーは記憶の作用を研究して、少しも意識されない記憶が存在し、しかもそれが特殊な明確さで頭脳の中に生きていて、何かの病気によって突然よび醒まされ、強烈な働きをなすことを説明した。ジャネーは精神病や暗示について研究し、一人の人間のうちにも、独自の生存をして時により相交錯する多くの魂があり得るといった。その他多くの哲学者や心理学者は、各方面に研究を進めて、人間の意識の世界を軽視するようになり、理性や理論に支配されない潜在意識や無意識の世界のうちに、各種の問題の説明を求めようとした。そして殊にベルグソンやフロイドの研究考察は、大きな光明や暗示をこの方面に投じた。
ベルグソンの説くところによれば、意識は吾々の精神世界の一部分に過ぎなくて、単に説明したり理解したりする実際的役目を帯びてるだけである。吾々の理想や性格は、その意識的な部分よりずっと広く拡がっている。無意識こそ吾々の精神生活の普通の形体であって、この隠れた広い深い源から、吾々の意識的な理論的な生活が流れ出てくる。
それからなお、彼は時ということについて新らしい考察をした。従来、時は空間と同様に測定されるものとされていた。即ち、時の各瞬間は同質のものであって、一メートルの長さの上に一メートルの長さをつぎたすことが出来るように、或る時間の上に或る時間がつぎたせるものであった。然しそれは、ベルグソンによれば、全く抽象的な仮定に過ぎなくて、現実の時というものは、ただ純粋な持続のみである。持続はたえず変化する。それ故、或る事物や現象の或る瞬間はその前の瞬間とは異なる……。
右のような所説は、文芸界にも新らしい見解を寄与したが、更に、フロイドの精神分析学は大きな影響を齎した。フロイドによれば、吾々のうちには二つの存在がある。一つは自然的存在、即ち吾々の天性通りの存在であって、も一つは人為的存在、即ち教育や社会的拘束によって作り上げられた存在である、ところで吾々の意識は、この第二の人為的存在をしか認めたがらない。しかし往々にして、第一の自然的存在の方が強力であって、無意識界の底から、種々の身振や癖や夢想や狂気や罪悪などを強要する。
なおフロイドは性的本能について微細な研究をなし、リビドーの理論を打立てた。吾々には栄養の本能があって、時に空腹を感ずると同様に、また性的本能があって時に性的空腹を感ずる。この性的空腹をリビドーというのである。そしてリビドーはその実際的満足を得ない場合には、種々の異なった形になって現われてくる。各人の神経組織に随って、或は精神病となり、或は夢となり、或は神秘主義となり、或は芸術となる。
彼の夢の解釈と芸術の解釈とには、多くの新らしい見解を含んでいる。芸術の解釈には幾多非難の余地があるけれども、夢の解釈は吾々の無意識の世界に多くの光明を投ずるものである。吾々の無意識の世界が、如何に多くの潜在的な記憶や欲望などの要素を含んで、深く広いものであるか、それを明示し、或は暗示する。
かくて、多くの哲学者や、心理学者などの研究は、吾々の精神生活のうちに広い深い無意識或は潜在意識の世界が存在することを、そして意識の世界はごく狭い一小部分にすぎな
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