ている。――女性美の理想は、人の嗜好によって異るものであって、彼女は要するに、私の理想的な美人だったのである。
驚くべきことには、彼女は全身、異様な光輝にとりまかれていた。私はその光輝と美貌とに眩惑して、石のように佇んだ。彼女は時間の経過そのもののように移り動き、私に近寄り、私の傍を通りすぎた。私は振向いて見ることも出来なかった。心身とも甘美な恍惚状態にあったのである。
やがて我に返ると、私の眼の正面には、燦然と黄金色に輝く夕陽が宙にかかっていた。私は眼をしばたたきながら、その夕陽の光にしみじみと浴した。
その時の彼女を、私は今でもはっきり覚えている。いつまでも忘れることはあるまい。恐らくそれは私の永遠の恋人なのかも知れない。
彼女がどんな顔立であるか、よく分っていながら、全然云えないのである。それは既に一種の幻影である。ヴェルレーヌも、その夢想の女が、金髪であるか褐色の髪であるか知らないと云う。ただやさしい名前で、彫像のような眼差で、今は黙してるなつかしい声の響きを持っていると云う。それはモナ・リザの微笑のように捉え難いものである。
彼女の姿は時折私の瞼の中に浮んでくる。永く変らぬ愛というものがもしあるならば、それはまた同時に永く満されない愛であり、理想の幻に対する愛であろう。私は彼女に一つの名前を欲するのであるが、如何なる名前もぴったりとあてはまることがないのである。
四
ユーゴーは「レ・ミゼラブル」の中に、人は屡々高声に物を考えると書いている。それは誰でも日常経験することである。吾々が物を考えるのは言葉によってであって、その言葉が、或は心象となって沈黙し、或は低い呟きとなり、或は高声の叫びとなるのであろう――固より、脳裡に於てであるが。高声に物を考えるのは、多くは情意の昂奮している場合であろうが、然し情意の状態の如何に拘らず自然にそうなるような場所もある。
往年、私は屡々、有楽橋から呉服橋までの河岸ぷちを、深夜、歩くようになっていた、というより、歩くようにしていた。
夜遅くなると、あの河岸ぷちの方には殆ど人影がない。反対側の歩道は、ちょいちょい人通りがあり、その先は日本橋裏通りの賑やかな場所であるが、わざわざ掘割の岸を歩く者はないと見える。
歩道は狭く、柳の並木があり、低い手摺の外はじかに掘割であって、満潮の折には水が深々と寂
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