と、片目、鼻っかけ、欠唇《いぐち》、蹙《いざり》……少し調子が狂えばもはや怪物だった。
生れてみなければ分るものではない!
二人向き合って話が途絶えるような時には、順造は知らず識らず秋子の腹部に眼をやっていた。其処に何かが孕まれて、もはや小さな心臓の音を立ててるのだった。
「だいぶ大きくなったようだね。」
咄嗟に云い捨てた言葉を口実にして、彼は手を差伸した。帯と着物と襦袢と、ぐる/\巻かれた紅白の布、その下に、むっくりと脹らんでる腹が、押しても小揺ぎさえしそうにないほど、泰然と控えていた。その張りきった根強さが、彼の指先から胸へじかに伝わった。彼は怪しい心の戦《おのの》きを感じながら、とんとんと叩いてみた。
「あら、いけませんよ、叩いては。」
睥めるように眺めた秋子の眼付が、なお彼の心を唆った。指先から次には平手で、次には拳固で、力一杯に押しっくらをしてみたくなった。
「お胎《なか》の児に響くじゃありませんか。」
彼女は両手で腹部をかばって、一寸険のある顔付をした。その様子が彼を依怙地《いこじ》にならした。冗談だか真剣だか分らない気持でぶつかっていった。彼女は本当に怒りだした。
「玩具《おもちゃ》じゃありませんよ。」
「だって触《さわ》らしたっていいだろう。僕の……。」
僕の児じゃないか、と云おうとして彼は中途で言葉を切った。勿論彼の児には相違なかったけれど、それよりも寧ろ、天地自然の芽ぐみ……豊かだ……という気がした。その気持が彼を、胎児の側から、また秋子の側から、遠くへつき放してしまった。彼はくしゃくしゃなしかめ顔を、どういう風に和らげていいか分らなかった。
「あなたみたいに我儘では、お父さんになる資格はありません。」と秋子は云った。「も少し真面目に考えて下さらねば困るじゃありませんか。片山さんでも中野さんでも、奥さんが姙娠なさると、それは大切になすったものですよ。毎日卵を二つと蒲焼《かばやき》を食べさせなすったんですって。私そんなものを食べたくはないけれど、それくらい大事にして貰うと、ほんとに幸福だと思いますわ。あなたはまるで、私一人で勝手に姙娠したとでもいうような調子ですもの。」
然しそれは、順造に云わすれば、眼の置き所が違うからだった。彼にとって直接に大事なものは秋子だった。その秋子の腹の中に、何とも云えないものが――胎児とは分っているが、実感としては仄暗い力強い根深い不気味な、凡てを押しのけてむくむくと脹れてくる生命が――宿ってるのだ。そのものに対して、秋子が全身を挙げて奉仕してることが、彼にとっては、秋子をいつまでも掌に握りしめていたいだけに、小憎らしいほど秋子が可愛いいだけに、一層気持を脅かされる種となった。
彼女にとっては、俺のことなんかはもうどうでもいいのだ!
一寸した用事を頼んでも、彼女はなかなか立ち上ろうとしなかった。特別に彼女に云いつけた仕事も、長く放ったらかされてることが多かった。その上彼女は、彼を反対に使おうとしていた。背が低いので、高い所にある物を取る時にはよく彼を呼んだ。
「余り手を挙げるといけないんですって。」
そんなに胎の児が大事なら、姙娠を彼にうち明けるのだって、もっとしみじみとした心でなぜしなかったのか。喧嘩のついでなんかは、余り人を踏みつけにした仕業だった。彼はそれを責めてみた。
「だって、まだどうだか自分でもよくは分らなかったんですもの。あなたが余り呑気だから、本当にそうだときまってから、不意に喫驚さしてあげるつもりもあったんですわ。それが、あの時はあなたが余りひどいことをなさるから、つい調子で云ってしまったのです。」
人を馬鹿にしたように、小さい方の右の眼だけで笑っている、その様子が、順造は急に堪らなく可愛くなった。いきなり飛びついていって、両肩に手をかけてぐんぐん押えつけてやった。
「お止しなさいよ、苦しいから。」
彼はなお力を入れた。彼女の小さなまるまっちい身体を、其処に押しつぶし、畳の上にごろごろ転がして、それから両腕で胸に抱きしめてみたかった。肩の手を離して、上から押被さりながら、両膝の下に手先を差入れて、坐ったまま持ち上げた。彼女は笑いながら身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]くはずみに彼の手から滑って、其処にどしりと落ちて倒れた。
彼はぼんやりつっ立ったまま待っていた。が彼女は長く起き上らなかった。しまいには肩ではあはあ息をしだした。心配になって覗き込むと、彼女はがばとはね起きて身を退《ひ》いた。
「あなたはそんなにお胎の児が憎いんですか。」
冗談にしては余りに声の調子が落着いていた。姙娠前に、ふざけるつもりから喧嘩になって、手荒くつき飛されたりなんかした後で、そんなに私が憎いんですか、と彼女はよく云ったけれど、上っ調子のその言葉は、攻撃的なだけで根深くはなかった。それが今は、腹の底から彼に対抗しようとしていた。
「お前こそ僕が邪魔なんだろう。」と心にもない言葉が彼の口から出た。
その後では、何も云うことがなくなって黙り込んだ。
姙娠した女を相手に喧嘩するものじゃない!
苦々しかった。二人きりの時は、どんなに激しくいきり立っても、底をわってみれば夫婦間の冗談にすぎなかった。所がそれに胎児という変なものが加わると、二人の心は笑うにしても怒るにしても、同じ一つの火に燃えなくなった。彼女はもはや彼を対手にしてはいなかった。
七ヶ月、八ヶ月……となると、腹が目立って大きくなった。彼女は前年の新婚当時のように、暑い盛りを海岸へ行こうとも云わないで、額には汗をにじませながら、両袖で腹部を蔽って、室の真中に泰然と坐っていた。ただ一つの要求は女中を傭うことだった。その女中が漸く一人見付かると、家の中の用を殆んど凡て任せっきりにして、自分は赤ん坊の着物などを、ぽつりぽつりと縫い初めた。針を手にしたまま、何かをぼんやり思い耽ってることが多かった。
順造はその後ろへ忍び足で近寄っていった。両膝の先を開き加減にして、臀をどっしりと畳に据えながら、大きな腹をつき出し、痩せた薄っぺらな胸と肩とで息をしてる、その様子が可笑しかった。
「何を考えてるんだい?」
彼は笑いかけていたが、握り向いた彼女の没表情な眼を見ると、その笑いを顔に出すことも引込めることも出来ないで、中途半端な渋め顔をした。
「時々腹に瘤が出来るんですよ。赤ん坊が手か足かを伸してるのじゃないでしょうかしら。こんなに固くなって……。」
乳首が黒くなって、顔が蒼白く色褪せていた。
「見せてごらん。」
はだけた胸から手を差込んでみたが、彼には何にも感ぜられなかった。大きな山の裾野を思わせるような腹部が、押してもびくともしないほどの根強さで頑張っていた。
「まるで鉄の扉みたいだね。僕がノックしてみよう。中で返事をするかも知れない。」
冗談のつもりだったのが、云ってしまってから真剣な怪しい気持になった。拒む彼女の手を押のけて、とんとんと叩いてみた。
「いけませんよ。もし不具《かたわ》の児でも生れたら責任を持って下すって?」
「お前でも、どんな児が生れるか心配になることがあるのかい。」
「何を仰言るのよ。どんなに心配して大事にしてるか知れませんよ。一寸したことでも、どう障るか分らないんですから。指が二本くっついてたり、耳が縮れたりすることは、よく世間にあるじゃありませんか。」
「なあんだ、つまらない。」
「何がつまらなくって?」と彼女は意気込んだ。
彼はどう説明していいか分らなかった。が兎に角、彼女の心配は明るい浅い、形のはっきりしたものだった。然し彼のは、暗い深い漠然としたものだった。底のない不気味さ、そんな感じが胎児という考えを色づけていた。
秋子は急に苛立ってきた。黙ってる彼の顔へ、尖《とが》った声の調子を投げつけた。
「あなたは私が姙娠したのを御不満なんでしょう。そうに違いないわ。一度だって喜んで下すったことがあって?」
「馬鹿な邪推をするもんじゃない。」
彼女は邪推でないと云い張った。そんな考え方をするのはいけない傾向だと彼は云った。あなたの方がいけない傾向だと彼女は云った。そう思うのは誤解してるからだと彼は云った。
「誤解ですって?」と彼女は声の調子を高めた。「それじゃ、どうしてそんなに私のお腹を気になさるの。思い切ってお叩きなさるがいいわ。今にどんなことになるか分るから。」
捨鉢に腹をつき出してる醜い彼女の姿から、彼は憫然と眼を外らした。室の隅には、赤ん坊の小さな着物が、縫いかけのまま放り出されていた。その可愛いい赤い色から、彼はぴしゃりと頬辺を殴られた気がした。淋しかった。冷たくなった心のやり場に迷って、秋の[#「秋の」はママ]方へ屈み込んだ。
「僕が悪かったよ。もういいじゃないか。」
彼女は啜り泣いていた、と思ったのは誤りで、肩で息を喘いでるのだった。その肩に彼の手が触ると、彼女はつんと身を反らせた。
「構わないで下さい!」
彼が何と云っても、彼女の機嫌は直らなかった。機嫌が直ると、上から見下したような調子でくり返した。
「あなたは父親になる資格はありません。」
彼は何とも返辞をしなかった。それに構わず彼女は、またぼんやりと考え込んだ。
偶像を抱いてるのだ!
偶像崇拝者の排他的な執拗さが、彼女の態度のうちに現われていた。凡ての仕事を打捨てて、ただ胎児のことばかりに専心していた。散歩の帰りに彼の袂に縋ることがあっても、それは昔のような心からではなく、転んで胎内に激動を与えないためであることを、彼ははっきり感じた。背の低い足の早い小鳥のような彼女は消え失せて、大きな腹でどっしりと落着いて上目がちにあたりを見廻す彼女となっていた。
日に日に可愛い秋子が何物かに奪われてゆくのを、順造はどうすることも出来なかった。而も彼女を奪ってゆくその偶像は、固より胎児ではあったけれども、単にそればかりではなく、何だか陰惨な得体の知れない大きな力だった。見つめていると、眼が眩むような気がした。
誰を――何を――愛していいか、彼には分らなかった。
秋子がぼんやり立ってると、彼はそっと忍び寄って、彼女の両膝を後ろから押してがくりとさした。坐ってる横を彼女が通りかかると、ひょいと片足を投げ出して邪魔をした。一緒に次の室へ歩いてゆく時には、軽く彼女に足払いをかけてみた。そんな一寸したことにも、彼女はよく転んだ。そしては怒って、彼の悪戯を責め立ててきた。彼はそれを胸に抱きしめてやりたかった。然し彼女は彼の拡げた腕に飛び込んで来なかった。いつまでも顔を脹らしていた。それが、臨月近くなると、後で眼を濡ましてることがあった。
早く日の光を、自分達に……ではない、秋子の胎内のものに与えることだ! と順造は考えた。
二
秋子は、予定よりも三週間ばかり早く産気を催した。
その朝彼女は、今日一日会社を休んでくれないかと順造に頼んだ。[#「順造に頼んだ。」は底本では「順造に頼んだ」]前晩から様子が変だった。それでもなお半信半疑でいた。順造に留守を頼んで、女中を連れて銭湯に行った。帰って来て、それから昼食を済すと、本当に陣痛が襲ってきた。女中が産婆の許へ走った。
弱い中に鋭さを含んだ初秋の陽が、障子の下半分にぱっと射していた。秋子は布団の上に坐り、膝にのせた括枕《くくりまくら》によりかかって、障子の日向に写ってる松の小枝の影を、ぼんやり[#「ぼんやり」は底本では「ほんやり」]見つめていた。
「どうだい様子は?」
順造は十分おきくらいにくり返し尋ねた[#「尋ねた」は底本では「尋たね」]。その度毎に彼女はふり向いて、疑惑を含んだ眼付で見返した。何も云うことがなかった。沈黙のうちに、時々その大きな腹が波打って、彼女は肩のあたりをねじ曲げながら、眉根をしかめ歯を喰いしばった。心持ち引歪めた唇の間から、真白な小さい歯並が覗いていた。
「寝たらどうだい?」
「この方が何だか楽のようですから。」
痛みが去って、ほっ
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