ればっかりはどうしても……。」
両袖で腹をかこって、彼女はもう本当に泣きじゃくりをしていた。
「何を云うんだ、お前は! そんなことを頭に浮べるのさえだって、恐ろしいとは思わないのか。」
だが、俺はそんなことを考えたことが果してなかったのかしら? 今度ばかりでなしに、順一が生れる前だって……。
瞬間に閃めいたその考えに、順造は自ら喫驚して飛び上った。じっとしていられなかった。離れの室に逃げ込んでゆくと、白紙を張って秋子の骨壺を隠した本箱が、妙に白々しく取澄して見えた。彼はほっと安堵した気持になると共に、呆けたように頭が茫としてしまった。室の真中に敷いてあった布団の上に、ごろりと長く寝そべった。
静かな晩だった。変に物音一つ聞えなかった。長い間たった。室の入口から真白な円いものが覗き込んで、暫くしてそのまますーと消えていった。何だったろう、とそんなことを彼はぼんやり考えた。
いつのまにかうとうとして、薄ら寒さにはっと我に返った時、眠りながら考えていたらしい一つのことが、彼の頭にこびりついていた。
どんなことがあっても、順一だけは立派に護り育ててやろう!
今のうちに腹の中の子をどうにかするとかしないとか、そんな問題らしかった。順造は怪しい心地で起き上った。もう夜中過ぎのしんとした静けさだった。その静けさに耳を澄してると、訳の分らぬ不吉な不安さが寄せてきた。彼は立上って向うの室を覗きにいった。
廊下に足音を立てないようにして、それから注意して障子を開いて、頭だけ差出して眺めてみると、覆いのしてある電燈の薄暗い光の中に、ぱっとした派手な友禅模様のメリンスの布団に、竜子と順一とがぬくぬくと眠っていた。順造はそれを暫く眺めていたが、やがてまた足音をぬすんで自分の室に戻っていった。そしてじっと腕を組んで坐った。
俺は一体どうしようというのか。何を求めていたのか。
昔からのことが、順一が秋子の腹に宿ってからのことが、影絵のような静けさで、彼の頭に映ってきた。
そしてその夜順造は、二度も三度も竜子と順一との寝顔を覗きに行った。肉の豊かな頬辺をぐったりと枕につけ、大きな束髪の後れ毛をねっとりと頸筋に絡まして、横向きに片腕を長く差伸してる竜子の懐に、順一はその腕を枕に、仰向きになって、両手を肩のあたりにかついで、無心に眠り続けていた。二人とも殆んど息をしてないかのように、安らかにぐっすり眠っていた。順造はそっと寄っていって、順一の円っこい凸額《おでこ》に一寸手をやってみた。ふうわりした温かさがあった。彼が手を引込めるとたんに、何を感じてか左の頬に軽く笑窪をよせて、口を少し動かしかけたが、そのまままた静かに眠ってしまった。死のように静かな、而も温い眠りだった。
何という静かな眠りだろう! そして此処にも……。
順造は悪夢からでも醒めたような心地になって、自分でも喫驚して、本箱の鍵を開いて、中から秋子の骨壺を取出して胸に抱いた。室全体が、心の中全体が、冷やりとしてしいんとなった。
秋子よ、安らかに眠ってくれ! 順一も、竜子の腹の子も、皆安らかに眠ってくれ!
戸の隙間から白々とした夜明の微光がさし初めた頃、順造はそっと雨戸をくって外に出た。露を含んだ爽かな夜明けだった。庭の木々に小さな芽が出かかっていた。片隅の枸杞《くこ》の枝に、小さな実が所々残っていて、赤く艶々と光っていた。あの朝は、順一が生れた時は、薄紫の花が咲いていたっけ。
そうだ、皆安らかに眠ってくれ!
まだ星が一つ二つ輝き残ってるらしい仄かな夜明けの光の中に、順造は怪しい心乱れがして、室の中に戻っていった。そして頭から布団を被って、眠れ眠れ! と幻にでも呼びかけるように、胸の底でしつっこく繰返しながら、いつしかうとうとと眠っていって、それからは昏々と眠り続けた。竜子が順一を抱いて彼の室を覗きに来て、次には彼を揺り起そうとしたが、彼は夢中にその手を払いのけて、精根つきた者のように、いつまでも眠り続けた。
午後になって順造は眼を覚した。起き上るとすぐ順一の所へ駆けていった。縁側に坐ってぼんやり考え耽ってる竜子の膝から、いきなり順一を抱き取って、室の中をよいよいして歩いた。きょとんとした真黒な眼が彼の心に喰い込んできた。
「竜子、お前もいい子を産むんだぞ。」
ぎくりとしたように肩を震わして、竜子は彼の方を見つめた。蒼白い顔をして、息をつめて、蝦蟇のようにどっしりとした容積だった。
「いい子を産むんだ!」
独語の調子で繰返しておいて、順造はははは……と呆けた笑いを洩らした。眼から涙が出て来た。そして自分で自分が分らないぽかんとした気持になって、順一を抱きながら、あちらこちら歩き廻った。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13
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