に、安らかにぐっすり眠っていた。順造はそっと寄っていって、順一の円っこい凸額《おでこ》に一寸手をやってみた。ふうわりした温かさがあった。彼が手を引込めるとたんに、何を感じてか左の頬に軽く笑窪をよせて、口を少し動かしかけたが、そのまままた静かに眠ってしまった。死のように静かな、而も温い眠りだった。
 何という静かな眠りだろう! そして此処にも……。
 順造は悪夢からでも醒めたような心地になって、自分でも喫驚して、本箱の鍵を開いて、中から秋子の骨壺を取出して胸に抱いた。室全体が、心の中全体が、冷やりとしてしいんとなった。
 秋子よ、安らかに眠ってくれ! 順一も、竜子の腹の子も、皆安らかに眠ってくれ!
 戸の隙間から白々とした夜明の微光がさし初めた頃、順造はそっと雨戸をくって外に出た。露を含んだ爽かな夜明けだった。庭の木々に小さな芽が出かかっていた。片隅の枸杞《くこ》の枝に、小さな実が所々残っていて、赤く艶々と光っていた。あの朝は、順一が生れた時は、薄紫の花が咲いていたっけ。
 そうだ、皆安らかに眠ってくれ!
 まだ星が一つ二つ輝き残ってるらしい仄かな夜明けの光の中に、順造は怪しい心乱れがして、室の中に戻っていった。そして頭から布団を被って、眠れ眠れ! と幻にでも呼びかけるように、胸の底でしつっこく繰返しながら、いつしかうとうとと眠っていって、それからは昏々と眠り続けた。竜子が順一を抱いて彼の室を覗きに来て、次には彼を揺り起そうとしたが、彼は夢中にその手を払いのけて、精根つきた者のように、いつまでも眠り続けた。
 午後になって順造は眼を覚した。起き上るとすぐ順一の所へ駆けていった。縁側に坐ってぼんやり考え耽ってる竜子の膝から、いきなり順一を抱き取って、室の中をよいよいして歩いた。きょとんとした真黒な眼が彼の心に喰い込んできた。
「竜子、お前もいい子を産むんだぞ。」
 ぎくりとしたように肩を震わして、竜子は彼の方を見つめた。蒼白い顔をして、息をつめて、蝦蟇のようにどっしりとした容積だった。
「いい子を産むんだ!」
 独語の調子で繰返しておいて、順造はははは……と呆けた笑いを洩らした。眼から涙が出て来た。そして自分で自分が分らないぽかんとした気持になって、順一を抱きながら、あちらこちら歩き廻った。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13
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