、「これからはもう手荒なことはしないと約束して下さいますか。」
順造はその方を顧みた。いやに真剣なものが彼女の顔付に感ぜられた。まだ頭の隅に残ってる先刻の幻が恐ろしかっただけに、俄に強い愛憐の情が起ってきた。彼はいきなり彼女の背に手をかけて、その肩を抱きしめた。
「約束するよ。何でもお前の云う通り約束する。」と彼は云った。そして心の中では、お前が可愛いいんだ、ただお前が可愛いいんだ、と云っていた。
暫くして秋子はほっと溜息をついた。
「何だか頼り無い約束ね。」
「お前は恐《こわ》くないのかい。」
二人の言葉は殆んどかち合うくらいに同時に出た。そして二人は、互に相手の意味を理解するのに一寸間がかかった。それから黙り込んでしまった。
空の星がいやにぎらぎら光ってくるように思われた。順造は眼を伏せて、庭の隅に澱んでいる濃い闇を、見るともなく見守っていた。暫くすると、秋子がうっとりと星を眺めてるのに気付いて、彼は或る一種の懸念に――聖なる恐れとでも云えるものに、突然囚えられた。
「お前は、」と彼は囁くように云った、「お胎《なか》の子供に対して、どんな感じがする?」
秋子は黙ったまま、微笑んで彼の方を見返した。そんな問に答える必要はないという勝ちほこった、それでいて何処かに皮肉な挑戦的な調子を含んだ、微笑だった。が次の瞬間に、彼女はぴくりと肩を聳かして、あなたは? と眼付で尋ねかけてきた。
彼はひょこりっと立った。てれかくしに立ち上ったのではなかったが、後で自分ながらそう感じた。
「姙娠なら冷えるといけないから、中にはいろう。ほんとに注意しなけりゃいけない。」
けれど、何を云ってるんだ! という気になって馬鹿々々しかった。すぐに寝た。秋子は茶の間で暫く愚図ついていた。
その晩彼は夢をみた。朝になると、どんな夢だったかは思い出せなかったが、大変目出度い夢だったようにも、または不吉な夢だったようにも、考えようによってどちらにも感ぜられた。そして、朝日の光の中を会社へ出かけながら、オチニ、オチニ……という気持で足を運んでいった。
目出度くても不吉でも、そんなことは構わない。オチニ、オチニ……幼い時小学校でやらされた通りのその歩調が楽しかった。けれど、俺は一体子供が可愛いいのかしら。
それが問題だった。
彼の心は浮々していた。浮々しながらどんよりしたものに蔽われ
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