なたが坐ってる。」
「え!」
 順造はまたぞっとした。瞬間に、硝子の人影は首を横にねじ向けた。
「いや! 二つになっちゃ。」
 秋子が彼の方をじっと見ていた。
 彼は漸く我に返った。彼が見たのは秋子の影で、秋子が見たのは彼の影だった。と分りはしたが、そのことが変に気にかかった。
 彼は立ち上って、電気の位置を変えた。
「これでもう、二つになることはないよ。」
 いやに真剣な気持になっていった。
「何だか薄暗いようじゃないの。」と彼女は云った。それから一寸間を置いた。「息苦しいから、戸を開けて下さらない?」
 彼は彼女の手を執った。冷たい手だった。
「だってまだ夜じゃないか。」
「まだ夜は明けないの?」
 彼はじっとして居れなかった。そんな筈はないけれど、夜明けかも知れないという気がした。そして立ち上りかけた。
 その時、恐ろしい音が起った。ある限りの力を搾って、堰き止めるものと突き破るものとが、ごった返してる渦巻きのうなりが、ごーう、ごーう………と秋子の喉から洩れてきた。一瞬の余裕も得られなかった。彼は秋子の上体に飛びついて抱きしめた。彼女の両の拳が肩のあたりへ、徐々に上ってきた。眼が据ったままぐるぐると廻った。大きな叫び声がした。看護婦が注射器を取って駆け寄った。光った針が皮ばかりの胸へずぶりと差された。がその時には、消え入るように凡てがひっそりとなっていた。
 僅かな瞬間のようでもあれば、長い時間のようでもあった。
 順造は昏迷した眼付であたりを見廻した。いつのまにか、も一人の看護婦も竜子も女中も駆けつけていた。何やら合図をしてる手付が眼に止った。彼は静かに秋子を寝かした。
 底知れぬ沈黙が落ちて来た。秋子は心臓痲痺のために、冷たくなっていた。

     五

 どんよりとした重い水が、或は渦を巻き或は淀み或は瀬をなして、小止《おや》みもない力で流れてゆく、そういう日々が続いた。順造は心の眼をつぶって、その流れのままに身を任せた。叔父と叔母とが万事を計らってくれた。
 二七日《ふたなぬか》の頃から、順造は心身の疲憊に圧倒されながら、漸くはっきりと周囲を意識しだした。凡てが寂寥のうちに落着いてきて、彼の世界へまとまりだした。その世界が吹き曝しだった。歯が一本抜け落ちた時、いくら口をきっと結んでも、何処からか冷たい風が喉元へ吹き込んでくる、そういう淋しさが彼の胸へ
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