しお知らせなさる所がありましたら、今のうちに……。」
「そんなに悪いんでしょうか。」
「まださし迫ってどうということはありますまいが、何しろ、軽い脳症を起していますからね。……そして、脳と同じ位に心臓にも打撃を受けています。」
 順造は黙って頭を下げた。
 然しどうも、それとはっきり信じられなかった。精神が苦闘から脱して漸くうち勝ちかける頃に、興奮の余り多少混乱することは、常識から考えても肯定出来た。またそういう実例はいくらもあった。秋子の場合もそれに違いないように思われた。あんなに疲憊しつくしていたのが、俄に元気になったのだった。
 彼は看護婦に相談してみた。
「左様でございますね、脈はいくらかお悪いようですけれど、食慾は増していらしたのですから……。」
 然し結局の断定は得られなかった。
 兎に角万一の用意はしておこう、と順造は決心した。
 秋子が病気のことは、必要な所へは大抵知らしてあった。彼の国許の母と弟とには、わざわざ出て来て貰うにも及ばなかった。で彼は秋子の国許の父へだけ電報を打った。病が重いから叔父の家まで来いとした。叔父――東京に居る唯一の近い親戚――へは大体のことを速達郵便で知らした。縁遠い親戚が一つと秋子の親しい友人が四五あったが、それには別に通知の必要はないと考えた。
 それだけの考慮と処置とを取るのに、彼は落着いてる自分の心を見出した。然し大急ぎでやらなければならなかった。秋子がしきりに彼を求めていた。
 彼が一寸姿を見せないと、何処へ行ってたかと彼女は尋ねた。そしてじっと彼の顔を見つめた。落ち凹みながら眼玉だけ飛び出して見える、凄い眼付だった。底に曇りを帯びてうわべだけぎらぎら光ってる、不気味な眼の光だった。その眼がぐるりと回転して一つの所に据ると、誰か来たようだから見て来いと云い出した。女中が居るからいいと彼が答えても承知しなかった。彼が立ち上りかけると、すぐに戻ってきてくれと云った。
 玄関には誰も来てはいなかった。
 そういうことが何度もくり返された。彼はしまいに馬鹿々々しくなった。表を少し歩き廻って戻って来た。
「私、あなたをどんなに待ったか知れないわ。」と彼女は云いながら、彼をすぐ側に引寄せて、その耳に囁いた「お腹が急に軽くなったような気がするのよ、そっと坐ってみましょうか、内密《ないしょ》でね。」
 そして彼女は起き上ろうとした
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