「もう夜明けに近いかも知れない。」
そう云い捨てて彼は、秋子の視線から眼を避けながら、室の片隅に敷いてある布団へ、着物のままもぐり込んだ。
眼をつぶると、暗い所へ引入れられるような心地がした。眼を開くと、先刻まではそうも感じなかったが、赤ん坊のため二重に覆いをした電燈が変に薄暗かった。……幾度も眼を開いたり閉じたりしてるうちに、いつのまにか眠った。
然しよく眠れなかった。表を通る牛乳車の音に眼を覚した。次に眼を覚した時は、遠くに汽笛の音や汽車の響がしていた。それからもう眠れなくなった。そっと起き上った。顧みると、秋子も赤ん坊もぐっすり寝込んでるらしかった。
彼は一寸躊躇したが、やがて忍び足で縁側に出て、雨戸を静かに開いた。冷かな空気が薄すらと霧を湛えて、夜が白く明けていた。彼は大きく呼吸をした。それから煙草を吸った。庭の隅の茂みの中に、何やら淡い色があった。よく見ると、大きな枸杞《くこ》の下垂《しだ》れ枝が、薄紫の小さな花を一杯つけてるのだった。
彼はその花に暫く見惚れていた。心の奥から、第一の夜明だ! という声が湧き上ってきた。
三
粘りっ気の多い緊りの少い、何だか混沌とした全体だったが、眼だけが神秘で美しかった。ぼんやり見開いてる黒目に、外の光が奥深く映って、僅かな微動にもちらちらと揺いで、それからまた静まり返った。その底から露わな魂が覗き出していた。――それだけが彼の世界らしかった。
順造は傍からぼんやり見守っていた。
産婆が毎日湯をつかわせに来た。室の中に上敷を拡げ、盥を置き、その中で湯をつかった。拳を握りしめて肩にかついだ両手と、く[#「く」に傍点]の字に曲げてる両足とだけに、驚くほどの力が籠っていた。根元を堅く結えられてる赤い臍の緒が、湯の中にゆらゆらとしていた。その臍の緒に沃度フォルムが撒布され繃帯がされると、感じから云っても独立した一個の存在だった。顔を渋めて口で何かを探し求めていた。乳が出なかったので砂糖湯を与えた。黒いころころの糞をした。淡褐色の液体を口から吐いた。生れる時に飲んだ汚物だそうだった。乳が出るようになっても、秋子のは盲乳《めくらぢち》だった。乳首をもみ出して吸いつかせるのに、彼女は一生懸命になっていた。
順造は名前をつけるのに苦心した。いくら考えてもよい名前が浮ばなかった。思い惑ったはてに、自分の順
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