傾向は短い時間の間に変化するものではないから。――然し、各作家が一年に一篇位の創作をしか発表しないか、或は一人の評家が一二年に一回位の月評をしかしないかするならば、事情は自ら異ってくる。けれどもそれは、現在の文壇に求められないことである。
一作品だけに即した批評を以て、自分の全体を評価したものと思惟するほど、作者の方でも愚ではない。現代の作家は、自分の満足した作品のみを発表してゆくほど余裕ある者ばかりではない。また作者の方に余裕があっても、それを許すほどの余裕ある文壇でもない。作者の欠点のみを暴露した作品も時には余儀なく発表しなければならないこともある。そういう一作品に対する悪評を、自分の全芸術に対する悪評だと思惟するほど、作者の方では愚昧ではなく、また自信に乏しくもない。多くの作家にとっては、一作品が月評家に認めらるるや否やは、自分の全芸術が認めらるるや否やの謂ではない。
私は月評のない短篇文壇が如何に淋しいかを想像出来る、そして月評の存在を肯定する。然し一月の評価は一月にして足れりではないか。
月評をして、現在にのみ立脚せしめよ。
月評家は、過去と未来とを眼界に取入れてはいけない、ただ現在をのみ目標としなければいけない。云い換えれば、各作家については、その過去の作品を念頭にし或は未来の期待を念頭にしてはいけない。文壇全体については、主義傾向の変易に亘ってはいけない。即ち何処までも現在の状態の記述批判でなければならない。其処に月評の真の使命が存する。
月評家の陥る最も大なる誤謬は、各作品の間に或るハンディキャップを付して評価することである。既に名を成した作家の作品と、未だ名を成さない作家の作品とを、同一標準で律しないことである。この誤謬は現在にのみ立脚しないことから来る、過去を酌量することから来る。作品と作者とを一つにして見る他の種類の批評の分野、それを侵さんとすることから来る。
所謂大家と称せられる作家の作品にとっては、そういう名称の下に余りに苛酷に取扱われることは、それだけの損害でなければならない。所謂新進作家と称せられる作家の作品にとっては、そういう名称の下に余りに寛大に取扱われることは、それだけの侮辱でなければならない。右と反対の取扱方は、その作品にとっては、阿諛[#「諛」は底本では「言+嫂のつくり」]であり或は虐待でなければならない。そしてそれらは何れも当の作者には不快となる。
自分の産み出した作品が、或は損害や阿諛[#「諛」は底本では「言+嫂のつくり」]を受くることは、或は侮辱や虐待を受くることは、作者の快しとする所ではあるまい。大家を更に鞭撻し激励せんとする勇気と新進作家を引立てんとする同情とは、之を他の種類の批評に求むるがよい。文壇は実力の競争場である。而も勝負を争う処ではない。其処にハンディキャップを持ち出すのは一種の冒涜である。
現在の作品を皆同一の標準で律すること、それが月評の務めでなければならない。勿論各作品が有する主張傾向色彩味雰囲気などはそれぞれ異るべきを考えれば、茲に云う標準ということは或る水準を指すものであって、点や線やではなく平面を指すことは断るまでもあるまい。斯くて聳ゆべきものは聳えしめ、埋もるべきものは埋もれしめ、成長したるものは成長したるものとし、小さき芽は小さき芽とし、各作品の如実な状態を、過去未来に亘る各作家の芸術ではなしに、各作品が形造る現在の文壇の形状を、そのままに伝えるのが、月評の使命でなければならない。なぜなら、月評はあらゆる情実を脱すべきであるから、字義通りに月評たるべきであるから、現在にのみ立脚すべきであるから、そして一月の評価は一月にして足れりであるから。但し、――私は茲に純粋の月評[#「純粋の月評」に傍点]のことを云うのである。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月8日作成
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