を甘受するがよい。未来に対する信念や力や自省や努力やは、そういう所から生じてくる。峻厳な批判こそ真に人を救うものである。
 評家の側より之を観れば、情状酌量の批評を事とする時には、恐らく一人としてその煩に堪え得る者はあるまい。その月に発表せられた作品全部に対して、もしくは批判せんとする作品全部に対して、その創作当時の各作者の事情を知悉することは恐らく不可能であろう。随って、甲には情状を酌量して乙には情状を酌量しないという偏頗な結果を来す。偏頗は文壇を害するものである。寧ろ一切の情実を去って、直接作品のみに対する公正な批判を下すべきである。――但し、私は茲で月評のことを云うのである。

 月評をして、字義通りに月評たらしめよ。
 私は月評と他の批評とを明確に区別したい。作品を評価するに、それが創作せられた当時の事情をも酌量し、また作者の性格天分にまで探り入ること、換言すれば、作品と作者とその周囲とを眼界に取り入れた批評、そういう批評の存在を私は是認する。否、そういう批評こそ真の批評であると信じている。最も必要な批評であると信じている。既に名を成した作家を正当な途に進ましむる助けとなるものは、未だ名を成さない作家を世に紹介するものは、天才をして益々光り輝かしめ愚才をして死滅せしむるものは、そういう批評であると信じている。根本に於ては人とその芸術とを切り離し得ないものであると信ずる私は、右のような批評こそ真に望ましいものであると思っている。
 然しながら、月評はそういう批評とならないのが至当であろう。月評家は己の眼界を、単に作品のみに限らなければいけない。その作者の素質なり傾向なりは、之を言外の領域に放逐するがよい。勿論、各作品には、如何に投げやりに書かれた作品にも、作者の生きた血と肉とが含まれている。其処から作者の本質に探り入ることも、優れた評家には出来得るであろう。然しそういう努力は月評には不要であると私は云いたい。何処よりか突然降来った作品、作者より切離された作品、その作品の独立した芸術的価値、それだけで月評の対象には充分である。芸術はその作者に即したものではあるが、また具象的独立性をも有するものである。その独立した作品そのものに対する批判のみで充分である。作者の素質なり傾向なりを一々論議する時には、月評はやがて自身の死滅を来さなければならない。なぜなら、作者の素質
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