偶像に就ての雑感
豊島与志雄

 吾々は多くの偶像を持っている。――(茲で私は偶像という言葉を、或はリテラリーに或はフィギュラチーヴに或は両方を総括した広い意味に用いる。)
 偶像は吾人の感情の、心の働きの、或は心象の、象徴化されたものである。それはぴたりと吾人の魂に触れる。そしてその生命は吾人の手中に在る。吾人はそれを殺すことも生かすことも出来る。必要になったら、それを幾つも拵えて生命の息吹きを吹き込んでやるがいい。不要になったら、どしどし破壊して泥の中に投ずるがいい。
 私はまだ幼い頃、巫女の祈祷なるものを見たことがある。私の祖母は武家に育ったに似合わず、そういうものに或る信仰を持っていた。そして或る時、巫女が私の家に招かれて、座敷でその祈祷が行われた。何のためであったか私は今記憶していないが、何かいけないことがあったに違いなかった。
 それは髪の毛が白くなっている老婆であった。がその両眼が異様に輝いていたことを私は今だにはっきり覚えている。座敷の真中に机が据えられて、それには榊だの御幣だの其他種々なものがのせられた。そしてその前に、仏壇に供えてあるような青銅の香爐に妙な匂いのする香が焚かれた。この香と御幣とは一寸対照が妙だけれど、実際は何等の矛盾な気持ちも起させなかった、ばかりでなく、却って一種の邪教めいた神秘さを伝えるものであった。そして机の一番奥に小さな厨子が据えられていた。その中には何やらぴかぴか光るものが在った。
 白い木綿の着物に黒の袴をつけた巫女は、その前に長い間両手を握り合せて坐っていた。そして何やら口の中でとなえると、急に彼女の手が急速な運動を始めた。それからはもう全く狂気としか思えなかった。はてはすっくと立上ったり、また倒れるように屈んだりして、大声に何やら怒鳴り散らした。眼はつり上り、顔は筋肉の痙攣に歪んでいた。ただ狂暴で一途な精神が彼女のうちに荒狂っているとしか思えなかった。……やがて彼女はすっくと立上って一声大きく何かを叫ぶと、そのままばたりと倒れてしまった。私は彼女が死んだのではないかとさえ思った。然し祖母はただじっと手を合して拝んでいた。やがて暫くすると、巫女はふと起き上った。そして長い間厨子の方に礼拝を遂げた。それから私共の方をふり向いた。
 私はその時の彼女の顔を長く忘るることは出来ないであろう。彼女の顔は真蒼であったが、それが妙に清く透き通っているようで、一種の神聖な光りさえ帯びてるようであった。その眼はじっと空間を見つめていた。そしてそのままの姿勢で彼女は静かに云った。「これで宜しゅうございましょう。」
 それが私の巫女に就いての最初の記憶である。それから、私はまたよく母の代理で(母も一種の信仰家であった)同じような祈祷をする神社に参詣したことがあった。そしてそれらの雰囲気は今でも時々私を誘惑する。
 それらの祈祷の利益如何は別問題として、巫女がその祈祷に身を打ち込んでいる瞬間は、真に貴い瞬間のように思える。そして彼女等の礼拝する種々な偶像は、彼女等にとって、全く自己の魂をうち込んだ生きたもの、もしくは現在眼に見える神体であるに違いない。それらの偶像は、それを信仰しない若しくはそれに自己の魂を吹き込まない人々にとってのみ破壊すべきもので、彼女等にとっては決して破壊すべきものではない。
 もしメレジュコフスキーの「背教者ジュリアノ」や「先駆者ダ・ヴィンチ」などを読んだ人は、その中に書かれた邪教の偶像がその邪教徒等に取って如何なるものであったかを、感ずる筈である。それからまた他の人々に取ってはそれらの偶像が如何なるものであったかを、感ずる筈である。
 初代キリスト教徒等が偶像を拝したのは、彼等の信仰の堕落ではなかった。また、東ローマ皇帝レオ三世の禁令によって或る教徒等が偶像を破壊したのも、決して彼等の信仰の堕落ではなかった。罪は偶像にはない。罪は彼等の心の中に在ったのである。偶像を作るのが悪かったのではない、偶像に囚われたのがいけなかったのだ。
 偶像を作る心理は、芸術製作の心理とほぼ同じ様なものである。彼等はその中に自己の感情を、止むに止まれぬ心情の発露を吹き込むのだ。心象を具体化するのだ。主観を丸彫りにするのだ。然し乍ら偶像は常にその作者の生命と直接に向き合っていなければいけない。生のままの息吹きが籠っていなければいけない。玩弄せらるる時、偶像は死滅する。更に云い換えれば、偶像は具体化せられたる直覚だ。偶像とそれを拝する人との間には何等の間隙もあってはいけないのだ。
 抽象的なる人の直覚、主観は、たえず発展し進歩する。然るに具体化せられたる偶像の発展は甚だ困難である。其処に偶像と人との間に間隙が生じて来る。その間隙を無くして自己の生命を保たんがために、偶像は無理に人を自己の方へ引き止め
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