ると、幾つもの池に種々な金魚が一杯はいっていた。彼は竜金の池に目をつけた。尾が大きく色がよくて、それが一番立派そうだった。お上さんを呼んで、「四五匹下さい、」と云った。
 多くの群の中から、望みのものを選り出さなければならなかった。これと目星をつけて、白い鉢の中に掬い上げて買うと、それより他のものの方が立派なように思われた。他のを掬い上げて貰うと、更に立派なものが出てきた。彼は何度も選定を変えた。
「此処に居るのでお気に召さなければ、」とお上さんは云った、「上等のを二三日のうちに取り寄せてあげましょう。これでも上等の部ですが、お望みではどんなのでもありますから。」
 彼はすっかりまごついてしまった。「これでよござんす、」と答えながらも、自分の選んだのが一番悪いもののような気がしてきた。尾が歪んでいたり、赤の工合が面白くなかったりした。彼は苛々してきた。そしてなお二三度選み直した後に、それで諦めた。
 容器の問題になって、彼は更に困った。硝子の容器なら、そしてその家に在る一番大きな容器でも、二匹が精一杯だそうだった。彼は折角選んだ五匹の中から、更に二匹を選まなければならなかった。
 硝子の容器に金魚を二匹入れ、上から新聞紙で包み、それを紐でぶら下げ、三円七十銭という驚いた価を払って、金魚屋から出てきた時、彼は陰鬱な気分に閉されてしまっていた。胸がむしゃくしゃしながら、心が滅入っていた。何のために金魚を買ったのか分らなくなった。日が西に傾いて、街路の空気が妙に慌しかった。彼は渋面をしながら、重い金魚入れを下げて、足を早めた。
 下宿までは可なり遠かった。電車は込み合っていた。漸くのことで電車に乗ると、ぎっしり人込みの中に挟み込まれてしまった。金魚のことが気にかかった。然しどうにも仕様がなかった。片手で吊革につかまりながら、片手でやたらに肱を張って、金魚入れをかき抱くようにした。
 無事に下宿の近くの停留場まで来ると、大きな金魚入れを下げては中々降りられなかった。まごまごしているうちに電車は動き出した。
「下りるよ、下りるよ、」と彼は叫んだ。「降りますか、お早く願います、」と車掌は云いながら、強く鈴の綱を引いた。電車は急に止った。ごとんと反動が来た。彼は人並に揺られて、金魚入れを落してしまった。硝子の容器が壊れた。水がぱっと飛び散った。立込んだ人々は、驚いて一時に飛び上った。「金魚だ、金魚だ!」という声がした。
 彼は夢中になった。いきなり身を屈めて、泥床の上にはね廻っている二匹の金魚を両手に掴むと、それを振り廻しながら、むちゃくちゃに人を押し分けて、電車から飛び下りた。そして馳け出した。後から、叫び声とも笑い声ともつかない大勢の声が響いてきた。彼は我を忘れて馳けた。
 下宿の側まで来ると、彼は初めて我に返った。両手には金魚を握りしめていた。掌にねとねとした不気味な感触があった。見ると、右手の金魚は腹が裂けて臓腑が出ていた。彼はぞっとして、金魚の死骸を其処に落した。金魚は鰭を張って、生きてるかのように立っていた。彼は嫌な気がした。足先で溝の中に蹴やると、汚い汚水の中に、臓腑のはみ出た大きな腹だけが、ぽかりと浮き出して見えた。眼を外らすと、左手にはまだ一匹の金魚を握っていた。
 彼はそれを力強く溝の中に投げ込んだ。金魚は沈んだまま出てこなかった。然し初めの浮いてた奴の方は、どうにも仕様がなかった。彼は石を拾って投げつけた。大きな腹がぷかりぷかりと水に揺られて、向うへ流れて行った。そのうちに彼はたまらなく嫌な気持になった。
 思い切って立ち去ると、掌が両方共ぬるぬるしていた。我慢が出来なかった。傍の電柱に掌をなすりつけた。
 彼はぼんやり考え込んだ。而も何を考えてるのか自分でも知らないで、下宿に帰った。石鹸で手を洗ってると、先刻の沈んだまま出て来なかった金魚は、生きてたのではないかしらという気がしてきた。それを考えると更に堪らない気持になった。
 彼は室にはいって寝転んだ。着物の裾が水にぬれていた。生臭い匂いとぬるぬるした感触とが頭について離れなかった。懐には出し忘れた手紙がはいっていた。
 彼は陰鬱な気分の底に閉されてしまった。

「僕はあの日のことを考えると、馬鹿々々しいのか腹立しいのか分からなくなってしまう。それが僕の愉快なるべき一日だったんだからね。」そう云ってSは話の口を噤んだ。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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