た。「金魚だ、金魚だ!」という声がした。
彼は夢中になった。いきなり身を屈めて、泥床の上にはね廻っている二匹の金魚を両手に掴むと、それを振り廻しながら、むちゃくちゃに人を押し分けて、電車から飛び下りた。そして馳け出した。後から、叫び声とも笑い声ともつかない大勢の声が響いてきた。彼は我を忘れて馳けた。
下宿の側まで来ると、彼は初めて我に返った。両手には金魚を握りしめていた。掌にねとねとした不気味な感触があった。見ると、右手の金魚は腹が裂けて臓腑が出ていた。彼はぞっとして、金魚の死骸を其処に落した。金魚は鰭を張って、生きてるかのように立っていた。彼は嫌な気がした。足先で溝の中に蹴やると、汚い汚水の中に、臓腑のはみ出た大きな腹だけが、ぽかりと浮き出して見えた。眼を外らすと、左手にはまだ一匹の金魚を握っていた。
彼はそれを力強く溝の中に投げ込んだ。金魚は沈んだまま出てこなかった。然し初めの浮いてた奴の方は、どうにも仕様がなかった。彼は石を拾って投げつけた。大きな腹がぷかりぷかりと水に揺られて、向うへ流れて行った。そのうちに彼はたまらなく嫌な気持になった。
思い切って立ち去ると、掌が両方共ぬるぬるしていた。我慢が出来なかった。傍の電柱に掌をなすりつけた。
彼はぼんやり考え込んだ。而も何を考えてるのか自分でも知らないで、下宿に帰った。石鹸で手を洗ってると、先刻の沈んだまま出て来なかった金魚は、生きてたのではないかしらという気がしてきた。それを考えると更に堪らない気持になった。
彼は室にはいって寝転んだ。着物の裾が水にぬれていた。生臭い匂いとぬるぬるした感触とが頭について離れなかった。懐には出し忘れた手紙がはいっていた。
彼は陰鬱な気分の底に閉されてしまった。
「僕はあの日のことを考えると、馬鹿々々しいのか腹立しいのか分からなくなってしまう。それが僕の愉快なるべき一日だったんだからね。」そう云ってSは話の口を噤んだ。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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