わしながら、とうとう家の近くまで来てしまった。
「ついでに、お母さんにちょっとお目にかかっていきましょう。お願いしたいことがあるんです。」
嫌だともわたしには答えられなかった。
彼は馬がいるからと言って、家の中にははいらなかった。
お母さまは、いつもおおまかでのんびりしていらっしゃる。馬の轡をとってる彼と、門の前で立ち話をしながら、始終にこにこしていらして、時々ほほほと低くお笑いなすった。彼は、さっきの橋の上の出来事を話し、嘗て中国でお兄さまと交際があったと言い、自分はこちらに避暑に来てるのだが、友人たちは東京に帰ってしまい、退屈のあまり馬ばかり乗り回してるのだが、ついては、ただ当もなく馬を駆けさせるのも倦き倦きするし、牧場の前の茶店まで牛乳を取りに行くことを、自分に任せては下さるまいかと、押しつけるように頼んでしまった。
「是非そうさせて下さい。そうすれば、お嬢さんも楽になるし、僕も気晴しになるし、馬も駆けがいがあるし、僕はあの茶店で、二合ずつ牛乳を飲んでくることにしましょう。但し、運賃を頂こうなんて失礼なことは申しませんし、また、こちらの牛乳代を僕がお払いするなんて失礼なことも申しません。明日はよろしいんですね。では、明後日から実行致しますよ。」
はじめは、お母さまもお断りなすったが、あとでは、宜いとも悪いとも言わずに笑っていらした。
「お嬢さん、ちょっと紙きれと鉛筆を貸して下さい。」
それをわたしが持ってくると、彼は居所と氏名とを書きつけた。
「御疑念には及びません。こういう者です。」
彼の居所は、わたしの家から二キロばかり離れたところらしかった。彼が馬に乗って立ち去ると、お母さまは仰言った。
「この節は、ずいぶん風変りな人が出て来たねえ。だけど、春樹さんも、生きていたら、あんなかも知れないね。」
お母さまは頬笑んでいらしたが、わたしはなんだか不安な気がした。
彼――とはこれから言いにくいから、小野田さんと言うことにしよう――小野田さんは約束を守った。一日おきに、午前中、わたしの家に馬を駆けさしてきて、牧場前の茶店からの牛乳を届けてくれた。お母さまがいくら勧めても、決して家の中にあがることはなく、お茶一杯飲むこともなかった。馬上の牛乳配達、とわたしは冗談に言った。
ところが、ふしぎなことに、その馬上の牛乳配達の[#「牛乳配達の」は底本では「
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