た。
 青木は石村と全く二人きりなのを知り、石村の応対が懇切なのを見て、これはいつもと違った用件だと悟った。
「引止めて、迷惑じゃなかったかね。」
「いえ別に……。どうせ酒を飲むぐらいな用しかないんですから。」
「ははは、うまいことを言ってるぜ。」
 石村は二人のコップにウイスキーをついだが、なにやら憂鬱そうだった。煙草の煙の合間に、ふっと眉間に皺を寄せたりした。だが、彼のそういう表情は、何等かの行動的決意に依るものであることを、青木は知っていた。
 石村は青木の顔をじっと見た。
「実は、君に少し頼みたいこともあるんだが、なにか、特別な情報はないかね。」
「情報と言いますと……。」
「いや、そうむつかしく考えんでもいいがね、つまり、日本は今、ひどく緊迫した状態にあるから、各方面の情報を集めておく必要がある。一般與論の[#「一般與論の」は底本では「一般輿論」の]動向なんかは、どうでも宜しい。各方面の特別な個々の動き、それを掴んでおくことが大切だ。ところでこの情報というやつは、君も知ってる通り、重大だと見えるものが案外何の役にも立たなかったり、下らないと見えるものが案外に深い根を持っていたりするんだから、よほど細心に取扱わなければならん。むしろ、下らないと見えるものを、注意深く蒐集しなければいけない。現内閣の意向だとか、国警本部の方針だとか、左翼運動の新企画だとか、そういう大まかなものでなく、巷の声、ちょっとした聞き込みが大切で、そういうことについて、何か君が知ってることはないかね。」
 青木は考え込む風を装いながら、内心では、いよいよ来たなと思った。近頃、石村証券の商売の方は至って閑散で、各会社の内情調査が主な仕事となっていたが、その代り、石村のところへの直接訪問客が目立って殖えていた。日本再軍備の問題が各方面で論議されるようになってから、それが殊に甚しかった。石村の室へは、廊下から、事務室の方の扉と女秘書室の方の扉と、二つの出入口があって、直接の訪問客はたいてい後者から出入したので、どういう人物かよくは分らなかったが、主として旧軍人の類であることは想像に難くなかった。第一、ここの主な社員たちにしても、もとを糺せば旧軍人か或は旧軍属だったのである。
 青木が考え込んでるのを見て、石村は話の調子を変えた。
「君に思い当ることがないとすれば、まあそれでいいさ。酒場での酔っ
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