子を抱いて、全身ずぶ濡れになっていた。防空壕を出るとたんに、煙にまかれ、それから池の中につかっていた、とそれだけしか覚えていなかった。両腕のなかの雪子は、もう身動きもせず、息もしていなかった。そして二人は焼け残ってる寺に辿りつき、雪子の死体のそばで一日を過した。
「そのようなわけで、雪子がどこで息を引き取りましたのやら、時子にもさっぱり分らないのです。」と増二郎は話した。
――彼等はその寺に雪子を葬った。そして、川越の知人のもとに身を寄せていた。増二郎はしばしば東京に出て来て、将来の計画をした。年が明けてから、ささやかな家も焼け跡に出来、つまらない雑貨を商うようになった。ところが、焼け跡の住居に出て来てから、時子の様子が変ってきた。たいへん憂鬱だったのが、快活になった。それはよいが、快活の合間に、まるで物に憑かれたような瞬間が起った。そんな時、雪子と同じ子供があの池の中にはいっていると、増二郎に囁くのだった。あの池とは、清水家の池で、罹災の時に彼女がつかっていた池である。池にはいっている子供は、雪子ではないが、雪子と同じ子供なのだ。時子は雪子の墓にもよく詣る。それでもやはり、雪子と同じ子供が池の中にいるのだ。それが、やがて池から出て来るに違いないのだ。そうした彼女の思念は、深く根を張って、どうにも出来ない。増二郎はさんざん持てあまし、また可哀想にもなり、それにまた、このままでは怪談の種をまいて池にけちをつけることにもなるので、まあ、出来ることなら、池を借りて、そこで時子を遊ばせたら、時子の気持ちも常態に復するだろうと、そんな風に考えたのだった。
それを聞いてるうちに、恒吉はますます忌々しくなりました。
「子供のことを口走るのだと、ただそればかりではないでしょう。」
「いえ、それだけですが、ただ一二度夜中に起き上って、子供を見てくると言って、出て行こうとしかけたことがありました。まったく、それだけのことですが。」
大井増二郎は頭を垂れて、どうともしてほしいというような様子でした。恒吉は怒鳴るように言いました。
「それで分りました。少し考えてみましょう。」
清水恒吉は憤りの心地を覚えました。大井増二郎に対してでもなく、時子に対してでもなく、空襲の被害についてでもなく、その話全体について、またそんな話が起ったということについて、憤りを禁じ得なかったのでした。
――なんという愚劣な蒙昧なことだろう。
それから、その全体の愚劣蒙昧さに対して、挑戦する気持ちになりました。挑戦の方法として、池浚えを考えました。
恒吉は会社で、高鳥真作に逢って、池浚えのことを相談しました。
真作は眼を丸くしました。
「やはり出ますか。」
それを問いつめますと、真作は打ち明けました。――移転少し前のこと、或る夜池の中に女の姿がしょんぼり立っていた。それが確かに見えた。しばらく見つめてるうちに、女の姿はすーっと向うへ行って、消えてしまった……。
恒吉は顔をしかめました。
「だから、そんなことがありましたから、やはり、池を浚えてみた方が宜しいですよ。大丈夫、引き受けました。社のポンプを使えば、わけはありません。」
恒吉はただ仕事だけを頼みました。
――ここにも、愚劣蒙昧のはしっくれがある。恒吉は全く挑戦の決心をしました。高鳥真作に池浚えをやらせ、大井増二郎夫婦を招いてそれを見させることにしました。そんなことをして、或は、新たな噂の種をまくことになるかも知れませんが、構うことはないと思いました。
――池の中に何も怪しいものがあるわけではない。それを白日のもとに曝してやるのだ。
恒吉は昂然と池を眺めました。愛すべき美しい池でありました。
日曜日の朝、高鳥真作は、三人の工員にポンプを引っぱらしてやって来ました。大井増二郎夫婦は室の中へ招じられました。
断雲が空に流れて、陽が照ったり陰ったりしました。
池浚えははじまりました。エンジンは軽快な音を立て、池の水はポンプに吸いあげられて、徐々に減ってゆきました。水面はいつもより一層平静で、殆んど分らないほどに低下してゆきました。その水面が後には、次第に中央から凹んでくるようになりました。周囲の方は岸辺にねばりついて低くなるのを嫌がり、中央の方から先に低くなって、周囲の方を引きずり落してゆく、そういう様子です。その水面に時折、波紋が起って、何か動くもののある気配を示しました。その動くものが、やがては、否応なく姿を現わすに違いありません。何がいるか分りませんが、確かに何かいるのです。
恒吉は、幼いころ田舎でかいぼりをやったことなどを、思い出しました。川や小さな淵などを堰きとめ手桶で水を汲みほすのです。水が少くなると、盛んに波紋が立ちます。いろいろな魚があわて騒いでいるのです。水面から跳ね上るの
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