の後、精神が澄み返り、神経が冴え返って、悲痛なほど明朗な世界が現出され、その中で自分の身体が、自己を離れて観取されることがある。
 ソリエという医者の報告によれば、モーパッサンは晩年に、そういうことを屡々経験したらしい。
 書斎の机に向っている時、ふと室の扉の開く音がする。一体彼は、仕事中は決して室にはいってはいけないと、召使たちに厳命していたものである。扉の音をきいて、彼はふしぎに思い、振向いてみる。すると、はいってきたのは彼自身で、静に歩みより、彼の正面に坐り、片手で額を押えながら、彼が書いてる先を口述し初める。彼は別に驚きもせず、ペンを走らせる。そして書き終えて立上ると、幻覚は消えてしまっている……。
 ソリエはその現象を、神経病の一種のオートスコピー・エクステルヌと云っている。放縦不規則な生活や、脳をも侵す病気や、過度の労作などで、可なり重い神経系統の混乱に陥っていたモーパッサンのことだから、単に精神病の一種としてもよいだろうが、然し、精密な没我的な観察にのみ終始して、その観察眼がやがて自分自身にも向けられ、行動する自己と、それを見守る自己と、そうした二重の気持の心境に陥ってたことを考えると、幻覚の由って来るところを、心理的にも見てよいだろうと思われる。
 このような幻覚を発展さした彼の短篇小説をめくると、いろんなことが書かれている。
 或る日、家に戻ってきて、室にはいってみると、誰かが自分の肱掛椅子に坐っている。不在中に友人でもやって来て、自分の帰りを待ちながら居眠ってるのかも知れない。それで、近寄っていって、その肩に手をかけようとすると……手は椅子の背にふれて、人の姿は消えてしまった。
 また、誰か始終自分につきまとってる男があるような気がして、不安に思っていると、その男がやがて、自分自身になってしまう。椅子に坐ろうとすると、その男――自分自身が、先に坐っている。コップの水を飲もうとすると、其奴が先に飲んでしまう。花をつもうとすると、其奴が先につんでしまう。
 こうなってくると、少しおかしいが、然し、自己という意識の外部に、自分自身の姿を見出すことは、精神の混濁している時よりも、精神が極度に――或る病的に冴え渡った深夜などに、往々あるものである。
      *
 気違茄子の、或る地方に産するものの実をたべると、屋根といわず木の梢といわずに、やたらに高いところに登りたくなって、効果が消えるまでは下りて来ない。アラビアのラッフィング・プントの実をたべると、やたらに愉快になって、笑い歌い踊り、疲れて倒れるまでは止まない。また、故人の初盆に一家揃って写真をとったところ、一同の後ろ上方に、ぼんやり白いものがあるので、よく見ると、それが故人の姿だったと、そういう種類の話は無数にある。ところで、かかる薬草の効果や霊的異変はぬきにして、肉体そのものに執拗な生命力がからみついてる、新らしい怪異を紹介しよう。怪異といっても、これは全く事実談である。
 私の或る知人の家で、潮来の近くへ釣りにいったそのみやげを貰った。新聞紙にくるんで三時間あまりにさげてこられた川魚であるが、そのなかに、三匹生きてるのがあった。三四寸の鮒二匹と、一尺ばかりの鯰一匹。丁度庭に小さな池があって、何にもはいっていないので、その三匹の魚をはなっておいた。
 それから半年ばかりたってのこと、或る朝、池の鯰が、仰向になって水面に浮いている。どうしたことか、今迄元気だったが、俄に死んでしまったのだ。すくいあげて、とりあえず、コンクリートのたたきの上に置いておいた。
 その鯰の死体は、それきり忘れられた。天気のいい日で、春のことだけれど、コンクリートの上で日にてらされて、夕方思い出された時には、もう皮膚がかさかさになっていた。それを、池から二間ばかりのところに、一寸土を掘って、埋めてやったのである。夕方なので、急いで、尾の先がまだ少し土から出ていたが、そのままにしておいたと、埋めた女中は云っている。
 その翌朝、早起の奥さんが、雨戸をくって、何気なく庭に眼をやると、池のそばに、鯰がしゃがんでいる。穴からはいだして、池のそばまでやってきてるのだ。水をかけてやると、ぱくりぱくりと、それを吸う。
 それからが、大変だ。家中起き上って、鯰のそばに集った。夕方埋めたところは、別に取り乱した形跡もなく、鯰のぬけ出した跡だけが残っている。池には他に鯰ははいっていない。それかって、鯰のことだ。そうやたらにその辺にいる魚ではない。昨日の鯰にちがいない。
 そいつを、池にはなしてやると、あの長い鬚をつんとさして、大きな頭をふりたてて、何度か池の縁を泳ぎまわって、それからすっかり元気になって、水底にもぐってしまった。一日陽にほされ、一晩土に埋められ、とにかく一昼夜水から離れていて、そして生き返っているのである。
 この話、誰もすっかり信ずる者はなさそうだが、然し当事者たるその家の人たちは、他に疑念のもちようがないので、不思議なまた不気味な鯰として、今でも時々池をのぞいている。
 これは鯰のことだが、人間の肉体にだって、これ以上のことが起らないとは限らない。死後二十四時間以内には、死体を取納めていけないことになっているが、死体の命の長短を測定出来たら、どんなことになるか分ったものではない。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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