亡夫と諍いをしたというのです。――良夫がもう酔っ払って、正体もなくなっているのに、まだ、到来物の鹿児島の本場の焼酎をあおろうとしたから、彼女はそれをとめた。むりにとめると、お銚子をやにわに投げつけられた。それが、額に当って打撲と裂傷とになり跡が残ったものらしい……。
「それからは、あたくし、男の方のお酒には、もう口を出さないことにしました。」
憤懣とも自嘲ともつかないものが、山川正太郎の胸うちにこみあげてきました。
――あれほど気にとめていた彼女の痣は、ただそれっぱかしのものであったのか。それぐらいのことさえ、俺は彼女についてまだ知らなかったのか。
彼はじっと彼女の卵形の顔を眺めました。
「乾杯しましょう。」
とろりとした茶色の液体をなみなみと満したグラスを、彼女は静かに手にしました。
二人は同時にグラスを挙げました。
彼女は眼を細めて飲みほし、グラスを卓上に戻しました。それを、彼は見定めてから、手にある空のグラスを、床板に叩きつけました。音はわりに小さく、微塵に砕けて、光燿の破片が散乱しました。
憤りと悲しみと一緒になった感傷が山川正太郎を囚えました。涙が流れました。
「ちょっと、こちらへ……。」
彼は室内の襖かげ、外から覗き見られない片隅へ、彼女を連れてゆきました。
彼は彼女の肩へ手をかけました。
彼女は頭を振りました。
「乾杯のあとで……いけません。」
それを上から押っかぶせて、彼は彼女を抱擁しました。彼女の柔かな身体を抱いた両腕に、ぐいぐいと力をこめました。彼女は片手を彼の胸にあて、とんと二度ほど叩きました。彼が腕を離すと、彼女は息絶えたように畳の上にくずおれましたが、やがて、一息、肩が動きました。
その息の根を見定めて、彼はそこから去りました。
中廊下に出て、曲り角を経て、茶の間へ行こうとしますと、そこに意外にも、塚本堅造が立っていました。壁の表面とすれすれに、殆んど壁にめいりこんでるかと思われるほどでした。そして、軽く頭を下げていました。
山川正太郎は、なにか寒けがして、立ち止りました。白髪の多い小さな頭、皺だった額、足があるとも思えないほど細そりと垂れしぼんでる和服の下半身、それだけを、山川正太郎はじっと眼に入れました。
塚本老人は更にまた、頭を下げました。
山川正太郎は、くるりと向きを変えました。そして、階段を上って、
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