せんでしたし、殊に経済的には、如何なる混乱が突発するか分りませんでした。その不安定な時勢のなかで彼は、恰も戦争中に積極的に動かなかったように、やはり積極的に動こうとはしませんでした。ただ、飲酒と無為との独自孤高な生活を、これではいけないと思いました。なにか新たな生活を、幻想的に追求しました。資産の危殆も却って快いものに思われました。そして新たな出発線を、亡父の五十日忌に置きました。そういうものに頼ったところに、彼の決意の浅さ弱さがあったとも言えましょうか。
それでも、決意に似た感慨は、深くそして痛く、ともすると彼はよろけそうになりました。
新らしい某政党の若い総務の本間利行が、帰りぎわに、彼をちょっと物蔭に呼びました。
「あなたもぜひ、党で大いに働いて貰わねばなりません。自重して下さい。それから、ミガキ鋼板のことは、万事承知していますから、御安心願います。」
囁いたまま、返事も待たず、玄関の方へ出て行きました。
それを見送るのに、山川正太郎は苦痛を感じました。そして玄関から引返すと、ベランダの椅子に腰を据え、柿酒の瓶を引きつけ、酔態を意識的に装って、もう誰の見送りにも立とうとしませんでした。
後れて辞し去る上原稔を、彼は呼びとめました。
「君はまだいいよ。も少し飲もう。」
上原稔はちょっと躊躇しましたが、腰を下しました。
二人は黙っていました。上原稔は山川正太郎の眼を見ました。山川正太郎も、相手の眼を見返しました。それから視線は分れました。やがてまた視線が合いました。
「飲み給えよ。」と山川正太郎は言いました。
上原稔もグラスを手にしました。
そして、飲んでいるうちに、何か光に似たものが、山川正太郎の頭に浮びました。それが何であるかは、まだはっきり掴めませんでしたが、小さな皺を寄せていた彼の額の皮膚は伸び拡がり、眼眸は輝いてきました。
彼は手を差し出して、上原稔の骨張った頑丈な手を握りました。そして言いました。
「吾々のために乾杯しよう。僕は君の身方だ。」
上原稔は眼をしばたたきました。
「これが、先日の君への返答だ。」
「分ったね。」
俄に大きく見開いてじっと見つめた上原稔の眼は、涙にぬれてきました。その眼を伏せて、彼は言いました。
「分りました。」
「鋼板は、明日からでも、どしどし使い給え。君に任せる。僕も、出かけるよ。いいだろうね。」
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