「私もよく存じあげております。」と李景雲はいって、なぜか、顔を赤くしました。そしていい添えました。「陳家の奥様のこと、よく存じあげております。」
「いいえ、そういうことではありません。」と秀梅は押っかぶせていいました。「じかに、どこかで、よく識っているような気がしますが……。」
李景雲はうつむいて立っていましたが、呟くようにいいました。
「初陽台でございました。」
「初陽台……。」
秀梅はそう繰返して、じっと李景雲の顔を眺めました。
「覚えていますか。」
「はい。」
李景雲はまた顔を真赤に染めました。
秀梅はそれきり口を噤んで、眼をそらしました。静まり返った湖水の面は、青空を映し、午後の陽光を孕んで、生き物のように輝いていました。
食器の類を取りまとめていた※[#「槿のつくり」、85−上−18]香に、秀梅はきっぱりいいつけました。
「わたしはも少し遊んでゆくから、お前さんは先に帰って晩のお料理の仕度をみてやりなさい。」
そうして、※[#「槿のつくり」、85−上−22]香を先に帰しまして、秀梅はまた舟を少し出させました。卓子の上には、茶菓が残されていました。その蓮の実の菓子を彼女は一つつまんで、真白な小さな歯先でかじりながら、右手の方、初陽台のある山の峰を眺めました。李景雲は静かに舟を漕ぎました。
こうしたことは、陳家の夫人としては、少し我儘すぎる行いでありました。殊に、まだ三十五六歳ほどの若い美しい未亡人としては、そうでありました。けれども彼女には元来、世の中のことに無頓着な一面が少しくありました。
陳氏が亡くなったのは五年前のことですが、秀梅はずっと子供達相手に暮してきました。店のことや財産のことは忠実な老僕の徐康に任せきりで、どんな相談をもちかけられても、殆んど考えもせずに一任するのでした。そして彼女は次第に柔かな肉が増してき、挙措動作がなよやかになり、顔には瑞々しい色艶があふれてきまして、未亡人になって初めてその美貌が人目につくようになったのでした。けれども、彼女自身ではそういうことも全く問題でないらしく、いろいろ人の噂に上りながら、再婚の気持など更になく、子供たち相手にのんびりした日々を過し、奥向の家事を取締ってるだけでありました。そしてただ時々、気まぐれなことをしました。家には立派な料理人がいますのに、娘の瑞華と二人きりで、町の騒々しい料
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