半ば正体を失いかけてるようでした。これもあとで分ったことですが、その朝、焼酎を飲んで眠ろうとしたが眠られず、ふだん使ってるアドルムをのんだがだめで、また焼酎を飲んだりして、めちゃくちゃになってるのでした。却ってそのためだったのでしょうか、階段から転げ落ちてもわりに元気で、幾綴じもの分厚な原稿を拾い集め、それを抱えてよろよろと立ち上り、台所へ行き、そこから庭へ出て行きました。
 美津子さんが黙っているので、なんだかわたくしは気味がわるく、やはり黙ってついて行きました。
 美津子さんは原稿を引きちぎって、庭に積み重ねました。そうするうちにも何度か転び、しまいには地面に坐りこんでしまいました。そしてわたくしの方を物色するようにじっと眺め、初めて口を利きました。
「マッチを下さい。」
 その命令するような口調に応じて、マッチを取って来てやりますと、美津子さんは原稿の山に火をつけました。そしてわたくしの方は見ないで独り言のように言いました。
「この生い立ちの記に書いてあることを、電波で盗み取ろうとしています。早く燃やしてしまわなければ、すっかり盗まれます。手伝って下さい。庭中に撒き散らして、火事のようにして下さい。」
 そして暫く、美津子さんは燃え上る火を見ていましたが、ふいにがくりとなって、地面に突っ伏してしまいました。わたくしが驚いて援け起しますと、大声で叫びました。
「燃やすんですよ。庭中を火事のようにするんです。」
 わたくしは急に腹が立ってきました。火事と病気を用心しましょうという、平素のことも根にありました。この気狂女の言うままになったことが癪に障りました。逆に出てやれという気になりまして、有り合せの棒切れを取って、燃えさしの紙片をめちゃくちゃに掻き廻し、やたらに撥ね散らしました。その時のわたくしの気持ちこそ、全く狂気の沙汰でした。
 その紙屑の火から、そばにあった物置が一つ焼けてしまうことになりました。物置の前に、まだ片付けてない炭の空俵や藁束などがありまして、それに火が燃え移りましたのを、わたくしはただぼんやり眺めていたのでございます。美津子さんは自分が物置に火をつけたと仰言ってるそうですが、それは嘘か錯覚に違いありません。たとえ粗相からにせよ、物置が燃え上るようなことを致したのは、この花子でございます。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「別冊文芸春秋」
   1952(昭和27)年2月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月16日作成
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