ました。
「ばかなやつで、全く話にもなりません。」
それから声を低めて、事情を明かしてくれました。それに依りますと、良吉さんが帰って来た時、美津子さんはまだ食事もしないで、暗がりの中に坐っていたそうです。そして室の外を指差しました。淡い月の光りで透し見ると、室の正面に、物干竿の先が突っ立っていました。その物干竿を、美津子さんは、誰かがアンテナを仕掛けてこちらを探偵してるのだと言いました。こちらも負けぬ気になって、じっと坐ったまま対抗していたのでした。
「実に呆れ返ったものです。」
良吉さんは不機嫌そうに言って、ちょっとした料理を自分で拵え、わたくしに酒屋への使いを頼みました。きっとむしゃくしゃしていらしたのでしょう。
その晩、遅くまで二人で飲んでいらしたようでしたが、別に、議論めいた声も聞えず、静かでした。
でも、物干竿の話は、わたくしたちに、なんだか不吉な感じを与えました。監視の眼が、こんどはアンテナに変ったのです。
わたくしたちは、物干竿に注意しましたし、もうアンテナのことは出て来ませんでしたが、だんだん深刻なことになってきました。それも、美津子さんはまとめて話さず、ぽつりぽつりと断片的に言うだけですし、事柄が事柄だけに、わたくしたちにはさっぱり腑に落ちませんでしたが、前後のことをひっくるめてみますと、だいたい次のようなものでした。
どこからか、強力な電波が送られて来るようになりました。どの放送局から発せられるのか不明でしたが、目差すところはいつも美津子さん一人に限られていました。そしてその電波が伝わりますと、頭の中までじいんと響き、手先や足先までしびれる感じがして、ひどい重圧を全身に受けました。美津子さんも初めは大して気にしませんでしたが、重圧は次第に増してきました。そして遂には、原稿も書けなくなりそうだし、読書も出来なくなりそうだし、全く癈人同様になる外はないように思われました。
それになお、その電波は特殊なもので、こちらの微細な反応を、そっくり先方へ送り返すのでした。レーダーの極度に精緻なものだとも言えるようでした。こちらで思ってること、考えてること、夢に見たことまで、そっくり先方に分ってしまうのでした。
そういう電波が或ることを、美津子さんは知りませんでしたが、天気のよい或る日、道を歩いておりますと、誰かひそひそと、その電波のことを囁いて
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