ったのだ。――嘉代さんが、白痴の姪をふびんがって、いたわってやる気持は、分らないことはない。だが、千代はいったい何と思ってるのだろう。おれに殴られたことをなぜ言わないのか。自分の方が悪かったなどと、そんな分別のつく彼女ではない。或は、彼女はおれのことなど完全に無視してるのかも知れない。
 おれのことばかりではない、彼女自身のことも、彼女は無視してるようだ。――嘉代さんの時折の言葉を綜合してみると、千代の正体が次第にはっきりしてくる。
 いつも千代は、嘉代さんと一緒にお風呂に行く。そんな時、嘉代さんは千代をなるべく早く歩かせる。そろりそろりと、下駄をひきずって、重病人のように歩く、その歩調に嘉代さんが従わないで、自分の歩調に千代を従わせようとするのだ。普通の人のように歩く癖をつけてやろうと、訓練するためなのであろうか。
 或る時、千代は嘉代さんに後れないよう、相並んで、街路を横ぎりかけた。とたんに、一台のトラックが疾駆してきた。嘉代さんは立ち止ったが、千代は二三歩先に出た。手をつないで歩いてたわけではないのだ。嘉代さんは息をつめて、千代の袖を捉えた。瞬間、トラックは鼻先をかすめて過ぎた。同時に、千代は捉えられてる片袖を振り払い、両袖を顔に押し当てて棒立ちになった。暫く動かなかった。
「まっ黒なつむじ風が通りすぎた。」と漸くに千代は言った。
「つむじ風じゃないよ。トラックよ。」
「いいえ、まっ黒なつむじ風だった。」
 そして風呂屋に着くまで、トラックとまっ黒なつむじ風とが繰返されたのである。それから、浴槽につかろうとする時、千代はいきなり、浴槽の湯を桶にくんで、頭から浴びてしまった。まっ黒なつむじ風を洗い落すつもりだったのだろう。
 それはとにかく、そんなことは実に珍らしいのだ。千代はいつも、浴槽のそばにつっ立ったまま、なかなか湯にはいろうとしない。その代り、湯にはちょっとつかったきりで、すぐに出てしまう。その後が困る。両手をだらりと垂れて、流し場につっ立ったきりだ。大勢の人が屈みこんでる真中に、ただつっ立って、なにか考えるように足元に眼をやっている。下腹も恥部も股も、むき出しだ。全然羞恥の感など無いようだ。嘉代さんが桶に湯をくんでやって、さあ洗いなさいと促すと、はじめてそこに屈みこむ。
 千代のその姿は、想像しただけでも忌わしい感じを与える。流し場に素っ裸で、両手をだらりと垂れて、どこ一つ隠そうとしない、傍若無人の態度は、もはや一の態度ともいえないほどの下劣さだ。それが而も、へんにだだ白い肌で、体躯のことはおれは知らないが、下駄がちんばにへってるところを見ると、恐らく両脚は不揃いで、顔立といったら、口がゆがみ、眼尻がひどく下り、にやりと笑いそうに頬がゆるんでいて、醜悪といってもよい。もしこれが美人であるならば、大理石の彫像とか、木影のひそやかな沐浴姿とか、そういった古代趣味を連想させるものがあるかも知れないが、千代は全くその反対だ。
 そういう裸像が、平素の千代と重り合うと、おれは忌わしい気持になるばかりでなく、憎悪をさえも感ずるのだ。白痴だということだけでは許されない。白痴にも白痴美というものがある。だが千代には何等の美も認められない。ただ下劣で醜悪だ。その千代が、彼女自身を無視するのは、それはまあ彼女の勝手だとしても、このおれを無視しているのだ。おればかりではない。店に来る客たちをもそうだし、赤木をもそうだ。日常、赤木の言うことやおれの言うことを、彼女は殆んど耳に入れないかのようである。ただふしぎにも、嘉代さんの言うことにはよく従う。
 一見したところ、千代の薄野呂は、脳膜炎の結果かとも見えるし、遺伝梅毒のそれかとも見えるし、其他の悪疾のそれかとも見える。嘉代さんの注意で、彼女はそう不潔ではなく、臙脂色系統の衣類をまとっているが、そのため却ってなにか疾患的不気味さを感じさせる。そういう彼女がいるこの店に、多くの人が飲食に来ることは、おれには腑に落ちない。おれだったら、千代を見れば、もう二度とは来ないだろう。
 もっとも、ここの料理は、素人風だが場所柄としてはわりに品質がよい。客の多くは食いに来るよりは寧ろ飲みに来るのだが、その酒が、日本酒にしても、日本物だがウイスキーにしても、銀座裏などに比べても遜色はない。この点に赤木は頗る努力しているのだ。それから実は、千代はあまり客の前に出ないようになっている。奥の室で、お燗番をしたり、野菜をえり分けたり、下駄の鼻緒を拵えたり、ほどき物をしたりする。そんな仕事を、畑の草取りと同様に、彼女はよくやってのける。用がないと、居眠りをしていて、最後の後片付けに呼び起される。それでも、やはり客の前に顔を出すこともあるが、少しぐずついていると、嘉代さんが奥へ追いやる。嘉代さんがうっかりしている場合
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