も分りません。あなたがたの社会のことは、何も分りません。あんな噂をたてたり、それを面白がって吹聴したり、御当人が笑って聞いていらしたり……僕には何もかも分らなくなりました。そして、悲しいんです。」
彼はジンフィールのコップを一息に飲み干した。
美枝子はちょっと宙に眼を据え、立ち上って二三歩あるき、マントルピースの上に、壺や花瓶の間に置き忘れられてる、今はもう用のない白檀の扇を取って、それを無心に眺めながら言った。
「それでは、種明しをしてあげましょうか。あの噂は、わたしが立花のおばさまに頼んで、吹聴してもらったんですのよ。」
「嘘です。ごまかそうとなすってはいけません。」浅野は憤慨したように言った。「あなたがたの悪い癖です。だいたい、みなさんには隙が多すぎるんです。だから、つまらないことが大事に見えたり、大事なことがつまらなく見えたりするんです。あなたも、も少し働いて下さればいいがと、僕はいつも思っていました。室の掃除でもよいし、雑巾がけでもよいし、庭の草むしりでもよいし、針仕事でもよいし、とにかく、働いて下さい。お金持ちであることは構いませんし、お召の着物をふだん着になすってることも構いません。ただ、も少し働いて下さい。夜更しをなさらず、朝は早く起きて下さい。僕なんか、どんなに働いてるか、御想像もつきますまい。そりゃあ、貧乏ですし、住宅がなくて妻は田舎に預けてる始末ですから、働くのが当然ですけれど、然し、働くことの喜びを僕は知っていますし、それに慰められています。働くことの喜び、それを少しでも知っていただけたら、あなたはもっともっと立派になられる筈です。」
「あら、わたしだって、忙しいんですのよ。いろいろな用事を女中に言いつけたり、書生の杉山はいても、法律事務所に午後は通ってますから、午前中に家の用件を済まさしたり、指図だけでもたいへんですわ。」
「その、指図がいけないんです。いつも指図ばかりじゃありませんか。どんな些細なことでもよいから、なにか一つか二つでも、御自分でなさる気はありませんか。交際のことではなく、なにか別なことです。草花を植えるとか、水を撒くとか、そんなことでもよろしいし……。」
「はだしで馳け廻っても……。」
言いかけて、美枝子は口を噤んだ。浅野は泣いていたのである。瞼にあふれてくる涙をとめかねて、ハンカチで顔を蔽ってしまった。
美枝子はぴくりと肩を震わした。上目を見据えて考えこんだ。ややあって、浅野の方へ歩み寄り、ソファーに腰を下して、やさしく言った。
「あなたの仰言ること、わたしにもよく分っておりますわ。でも、どうにもならないことだって、ありますのよ。」
浅野はまだ顔を挙げなかった。
「それにしても、ずいぶん思い切ったことを仰言ったわね。だから、わたしの方でも、思い切ってお頼みがありますわ。聞いて下さいますか。」
浅野は鼻をかんで、眼を挙げた。その前へ、美枝子はジンフィールの残りの一杯をつき出した。
「これをお飲みになってから……。」
浅野は茫然とした面持ちで、その通りした。
「わたしね、いちど、男のかたの頬ぺたを、思いきり引っ叩いてやりたいの。あなたの頬を打たせて下さい。その代り、私の頬を打たせてあげます。」
声は少し震えていた。
浅野は殆んど無意識に応じた。
「さあどうぞ。」
彼は眼をつぶって、頬を差し出した。
一瞬の躊躇の後、美枝子は平手で、浅野の頬をはっしと打った。薄い硝子のような音がした。
「ありがとう。」泣いてるような声だった。「こんどはあたしのを、どうぞ。」
彼女は眼をつぶった。すっきりした細い眉、すこしふくれ気味の瞼、長い睫毛がちらちら震えていた。
「どうぞ。」彼女は促した。
浅野は静かに膝をついて、彼女の腿に顔を伏せた。かすかな香りが、鼻にではなく心に沁みた。
「僕には出来ません。」彼はすすり泣いた。「出来ません。許して下さい。」
美枝子はまだ眼をつぶったまま、両手をのべて、彼のこわい髪をそっと撫でた。
「奥さん、許して下さい。僕はあなたを、心から慕っておりました。」
ひっそりとした美枝子の体が、一つ大きく息をし、椅子の背に反り返っていった。浅野は半身を起して、その胸の方へ、唇の方へ、のりだそうとした。それを、美枝子は手で遮り、頭を振った。
「今は、いけません。」彼女は彼の耳元に囁いた。「これから、わたし、英語の勉強をはじめますから、面倒みて下さいね。書斎の方をわたしの居間みたいにしています。こんどから、あちらで……。」
彼女はすりぬけるように立ち上り、すーっとドアの方へ行き、呼鈴のボタンを押した。
十一月にはいると、菊花鑑賞に事よせて、あちこちでティー・パーティーが催された。戦争前、新宿御苑で観菊の招宴があった、それに做ったものである。もっとも、この節では、菊花鑑賞というのも名ばかりで、大して多くの菊の鉢もなかったし、全くお茶の集りで、食物といってはサンドウィッチにコーヒーぐらいなもの、余興におでんや鮨の屋台店が出ることもあるが、実は単に社交の催しにすぎなかった。
板倉邸でもその催しがあった。無風の好天気だったし、広庭で日向ぼっこをしながらお饒舌りをするのに、誂え向きだった。菊花の鉢がまばらに竝べられ、あちこちに小卓やベンチが配置されていた。紅白の幕が縁側近くに張り廻され、それに引き続いて、屋台店には和洋の酒瓶が竝んでいた。但しこの酒類は有料なのが愛嬌だった。
広庭の隅っこの小卓に、人を避けるような工合で、立花恒子と小泉美枝子とが差し向いでコーヒーを飲んでいた。恒子はもう五十近い年配で、ふくよかな体躯に貫禄が具わっていた。
「ねえ、おばさま。」美枝子は甘えるような口の利き方をした。「やっぱり、わたくしが申した通りでございましたでしょう。」
「そうね。だけど、少し薬が利きすぎたかも知れませんよ。」
「姙娠のこと。」
「そう。愛人まではよろしいけれど、姙娠となると、ちょっと聞きぐるしいことですからね。わたしも、骨が折れましたよ。」
「でも、おばさま、噂をひろめるのが、お上手でいらっしゃるわね。」
「まあ、なにを言うんですか、ひとにさんざん頼んでおいてさ。」
恒子は睥むまねをした。
「わたくし、初めて分りましたわ。姙娠ということが、どんなにひとに嫌われるか……。」
「ことに、男のかたにはそうですよ。」
「考えてみると、やっぱり、いやなことですわね。お腹がぶくぶくふくらんできて、お尻がでっぱってきて……わたくし、結婚中に姙娠しないでよかったと、つくづく思いますわ。」
「今だから、あんた、そんなことが言えるんです。わたしなんか、三人も子供を産みしたよ[#「産みしたよ」はママ]。」
「それは、昔のことでございましょう。」
「当り前じゃありませんか。」
「昔だったら、構いませんわ。わたくしでも、昔のことなら平気ですわ。いま、この身体で……と思うと、ぞっとしますの。」
「あ、ちょっと。」
恒子は美枝子の腕にさわった。目配せされた方に眼をやると、星山が、あの大きな図体で、だぶだぶの服をつけて、あちらへ歩いてゆくところだった。
「わたしたちの方を見て、引き返していらしたようですよ。」
美枝子は肩をすくめて笑った。
「だから、おばさま、姙娠の効果はてきめんでしょう。」
恒子はじっと美枝子の顔を見た。
「いったい、あんたは、どうして星山さんがそんなに嫌いなんですの。危い噂までたてて……それほどにしなくてもねえ。」
「しんから嫌い。もう我慢なりませんでしたの。御商売がどうの、御様子がどうのと、そんなことではありませんわ。わたくしに直接なんとも言わないで、菅野の奥さまを通して、甘言を竝べ立て、しつっこく言い寄るなんて、そのやり口もいやですけれど、それもまあよいとして、あの指輪が気に入りませんの。」
「指輪……。」
「精巧な彫りのある、太い金の指輪、いつもはめていらっしゃるあれですの。」
「ああ、あんなもの、なんでもないじゃありませんか。」
「では、おばさま、お貰いなさいませよ。おばさまになら、きっと下さるわ。」
「そうね。貰いましょうか、ほほほ。」
「あんなの、アメリカ趣味とでも言うんでしょうかしら。」
「さ、どうだか。それより、一時代前の日本趣味とでも言ったほうが、よろしそうですね。」
「とにかく、ア・ラ・モードではございませんわね。あんなの、いつの時代にでも、オール・ド・モードのたぐいでしょう。あのかた自身も、そうですわ。」
「なによ、そのオールなんとか……。」
美枝子はもう心がそこになく、何を思い出したか、くすくすと笑った。
「わたくしね、おばさま、英語の勉強をはじめましたの。すっかり忘れていたので、自分でもびっくりしましたわ。」
「若いうちに、なんでもやってみるものですよ。先生は……。」
「それが、あまり上手ではないんですけれど……。」
「どなた。外人のかたですか。」
「お上手らしくないから、もちろん、日本人ですの。あの……浅野さん。」
「あ、そう。」
何気なく返事をしながら、恒子はじっと美枝子の様子を窺った。美枝子は話を外らした。
「それから、おばさま、どうなんでしょうかしら、株の方……。」
「あ、忘れていました。大丈夫、安心しててよさそうですよ。さっきね、高木の奥さまにお目にかかって……御存じでしょう、総理府のあのかたの奥さま……それとなく探ってみますと、船の方は見込みが多そうですよ。あんたもまた、無鉄砲に背負いこみすぎてるようですけれど、まあ今のところ、なんとか辛棒するんですね。望みがありそうですから、手放さないことですね。」
「おばさまは、どうなさいますの。」
「わたしも、時期を待つことにしましょう。それから、ちょっと、あんたを紹介したい方があるから、あちらへ行きましょうか。」
立ちかけて、俄に、恒子は美枝子の手を押えた。
「ところで、あのこと、このままでよろしいかしら。」
「あのことって……。」
「なんですか、顔を赤めて……。」恒子は頬笑んだ。「噂のたてっぱなしで、ほおっといて宜しいかしら。もっとも、相手のひとが誰だか、それこそ、まったく根も葉もないことだし、あんたもこうして、平気で人中に出てるんだから、間もなく噂も消えてしまうことでしょうけれど、なにしろ、問題が問題ですからね。」
「だって、今更、取り消すわけにもまいりませんでしょう。」
「だからさ、わたしがまた一骨折りしなければならないかと思って……。」
美枝子は眼を足先に落した。
「ほおっといて、大丈夫だと思いますの。もう噂はこりごりですもの。それに、わたくしも、どうせ覚悟の上のことですから。」
恒子はまだ不安心らしく、美枝子の顔を覗き込んだ。それから、気を変えるように立ち上った。
「あまり心配させないで下さいよ。」
二人は黙って歩き出した。
板倉邸でティー・パーティーが催された日、而も真昼間、妙な事件が起った。
板倉邸は広い敷地で、コンクリートの塀に取り巻かれていた。その塀から出外れてしばらく行くと、左手が五メートルばかりの低い崖になっており、崖の下に小さな泥池があった。そのへん、崖の下は一面、戦災の焼け跡で小さな人家がぽつぽつ建ってるきりで、雑草の荒地と菜園とが入り交っていた。泥池は湧き水だが、赤く濁って、もう子供たちもそこでは遊ばず、木片を浮べて放置されたままだった。その泥池の崖上に、松が数本、ひょろひょろと植っていた。
その松の木立のところで、突然、二人の男が格闘を始めたのである。二人とも洋服姿の、相当な身なりだった。一人は五十年配の肥満した男で、一人はまだ若く痩せ型だった。年寄りの方がぶらりぶらり歩いてゆくのを、若い方が追っかけてきて、なにかちょっと言葉をかけ、いきなり殴りつけたものらしい。そして暫く揉み合ってるうちに、年寄りの方が、突き落されるか足を滑らすかして、子供みたいに崖下へ転げ落ち、泥池にはまってしまった。若い方は、それを上から眺めて、しばく[#「しばく」はママ]突っ立っていたが、自分の帽子を拾うと、足早にすたすた行ってしまった。
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