その光景を目撃したのは、通りがかりの二三人に過ぎなかった。短時間のことで、訳が分らなかった。馳けつけてみると、男は池の中に坐りこむようにして、ぽかんとしていた。それからのこのこ逼い出してきた。見物人は小径伝いに降りてゆき、彼を崖上に援け上げた。大した怪我もなさそうだった。
「この近所に、自動車はないかね。」
びっくりするほど元気なそして横柄な調子で、彼は尋ねた。
この近所に自動車はなかなか見当るまいと聞いて、彼はちょっと考えてる風だったが、帽子は忘れ、泥水にずぶ濡れになったまま、すたすた歩き出して、板倉邸の方へ行き、その裏口へはいってしまった。見物人は呆気に取られた形だった。
その男が、星山浩二だった。星山は板倉邸へ裏口からはいってゆき、下男をよんで、ティー・パーティーの際だからと秘密に頼み、遠い自宅へ電話をかけて、着換えを持って自動車の迎いを依頼し、下男部屋を借りて身体を洗った。額と腕に擦り傷があるだけだった。まだ可なり酔っていた。
「酔ってたため、崖から落ちても、怪我がなくて済んだよ、ははは。」
彼は磊落そうに笑った。
それだけのことだったが、然し、秘密には済まなかった。板倉の家人たちにはすぐに知れ渡った。格闘を目撃した者もいたのである。然し、様子を見に来た警官に向って、星山は、下らないことだと言い、襲われたのは事実だが、顔見知りの男だし、物取りでもないことだし、内分に願うと言った。
事件は一応落着した。
その話が、翌日の夕方、立花恒子の耳にはいった。彼女はティー・パーティーを早めに辞去したため、その時は知らなかったのである。なにか胸に思い当ることがあって、彼女は板倉邸へ電話し、なお事情を確かめた。考えこみながら夕食をすましたが、どうにも落着かず、自動車を駆って小泉美枝子を訪れた。
美枝子が出て来るまで、恒子は応接室の中をぐるぐる歩いていた。
彼女は立ったまま、美枝子の腕を掴んだ。
「まあ、あんた、知ってるの。」
「どうなさいましたの、おばさま。」
美枝子はにこやかに彼女を迎え、隅の方のソファーに招じた。
恒子は急に気落ちした思いで、美枝子の顔をしげしげと眺めた。思い惑った末、漸く言い出した。
「昨日、あの板倉さんのティー・パーティーの日にね、星山さんが、途中で誰かに襲われなすったこと、知ってますか。」
「あ、あのことでございますか、おばさま。存じておりますわ。」
「それなら、わたしに電話ぐらいして下すってもよろしいでしょう。」
「だって、つまらないことですもの。」
「いえ、わたしが言うのは、星山さんのことではありません。どういう人が、どういうわけで襲ったか、それがすこし気になって、わざわざ、こうして出て来たんですよ。わたしたち、星山さんとはああした係り合いがあるでしょう。だから、もしも、その襲った人にも係り合いがあったら、どうしますか。こんどは、噂だけでは済みませんからね。警察の方からも人が来たそうですよ。」
「そのようなこと、御心配なすっていらしゃいますの[#「いらしゃいますの」はママ]。それでは、おばさまにお目にかけるものがございます。」
美枝子は立ってゆき、間もなく、一つの封筒を持って来た。
封筒にはただ、「小泉美枝子様、必親展」とだけしてあった。
「今日の午後、宅の郵便箱にはいっておりましたの。御本人が自分で投げ込んでいったものと思われます。」
恒子は封筒を開いた。粗末な紙に几帳面な[#「几帳面な」は底本では「凡帳面な」]細字が竝んでいた。
御別れしなければならなくなりました。私は田舎へ引込みます。愛情にかけて、万事を御許し下さい。
詳しい御話を承わってから、私はHを憎みました。校舎増築について前からHを知っていただけに、猶更、憎悪の念が深まりました。あなたは一笑に附しておいでになりましたが、噂話其他により、またS夫人の仲介により、世間的にあなたの顔へ泥を塗ったのは、みなHが原因です。
あなたが私の頬を打たれた真意はどこにあったのでしょうか。あなた自身の自己解放の契機と、私は理解します。然しそればかりではなく、Hへの復讐、ひいては男性一般への復讐も、交っていたに違いありません。
板倉家の観菊の会へあなたがおいでになることを、私は知っていました。それは何でもありません。然し、Hも行くことを私は偶然知り、憤慨しました。あなたの身辺にHが存在することは、あなたを涜すことです。尚且、嫉妬反目の念も私にあったことは否定しません。
私は殆んど無意識的に、板倉家の近くを彷徨しました。中にはいって行くことの出来ない自分自身を苛立ちました。その時、板倉家から出て来るHを見かけました。酒に酔ってるらしい彼の足取りは、更に私を激昂させました。
私は彼を追いかけ、崖のところで呼び止めておいて、迂
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