に言った。つい先日も、二人きりの時、彼女に言った。
「奥さん、しっかりして下さい。なんだか嫌な噂が伝わっておりますよ。僕は勿論、それを信じはしません。僕は……奥さんのためなら何でも致します。」
 彼女は問い返そうとしたが、哲夫がそこへやって来たし、彼はあわただしく辞し去った。
 美枝子が知ってる男たちは、殆んど凡てと言ってもよいくらい、彼女に対して、馴れ馴れしい態度を取り、一方では、持って廻った曖昧な言葉遣いをするのだった。それが、浅野はまるで正反対なのである。
 髪の毛はこわくてばさばさだが、眼鏡をかけていない細面の顔は、蒼白い方で、上品にさえ見える。
「浅野さん。」と美枝子は呼びかけた。「あなたに、すこし伺いたいことがあるんですの。」
 浅野がびっくりしたように顔を挙げると、美枝子は頬笑んでいた。
「哲夫のことですけれど、なんだか勉強に身がはいらないように思われますが、どういうものでしょうかしら。いったいに、この頃の中学生なんか、生意気になってるようですけれどね。」
 その聞き方に、実は、身がはいっていないのだった。女中が持って来た紅茶に、彼女はウイスキーをさしてやり、自分の紅茶にもウイスキーをちょっぴりさして、匙ですくっては味をみ、またちょっぴりさして、匙で一掬いずつ味をみていた。子供が戯れに味わってるみたいで、銀の匙と小さな爪とが光りに映えていた。
「哲夫君のことなら、御心配いりませんよ。頭もよいし、真面目じゃありませんか。なにか、お気になることがありましたら、あの学校の担任教師に聞いてあげましょうか。」
 浅野が勤めてる学校は、哲夫が通学してる学校とは別なのである。
「あなたがそう御覧なさるなら、それでもう結構なんですの。わたしが充分に面倒もみてやれませんので、どうかと思いましてね。なにしろ、田舎から預ってる子なものですから……。」
「然し、あなたによくなついてるし、あなたもたいへん可愛がっていらっしゃるし、それだけでもう充分ですよ。」
 美枝子は眼でちらと笑った。青いような感じのする黒目である。
「でも、わたしにへんな噂でもたったりすると、いけませんわね。」
 浅野が返事に迷っていると、美枝子はまた眼で笑った。
「あなたは、先日、わたしにへんな噂がたってると仰言ったわね。どんな噂でしょう。」
「では、なんにも御存じないんですか。」
「いいえ。」
 こんど
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