た陰深たる木立の奥をすかして見た。心の中にたち乱れた情緒が息を潜めて、大きい円い力となって彼の胸を中から緊縮した。解き難い或るものが、そしてただ緊張し霊感する或るものが其処にあった。不可見の或るもの不可知の或るものが、彼の周囲をとりかこんで、それが無際限に連る。心霊の孤独と多元的宇宙の相互の愛とが、殆んど何等の矛盾なしに彼の心に感ぜられた。空と地とに啓示せられる誘《いざな》いのままに彼は身を任せて、何物をもうち忘れ、只ふらふらと歩き廻った。
 その時向うにちらつく火影を認めて彼は凝乎と立ち止った。それは叔父の室であった。叔父は窓をうち開いて黙然《もくねん》と外を見ていた。彼は忍び足に近寄って、その顔を見つめた。叔父は地面に眼をすえて、だらりと両手を窓に置いている。背後から電灯の光を受けた顔が仄白く浮んで、石にでもなりそうに思われる程じっと動かないでいる。その時叔父は片手を上げて頸を支えた。彼は余りに激しく見つめていた自分の視線に懼然として、一寸樹影に身を引いて、それから低く呼んだ。
「叔父さん!」
 叔父は物に慴《おび》えたように飛び立って窓から少し退いた。そして声した方をすかし見た。
「まだ起きていらしたんですか。」
「ああ。」と叔父は漸々安心したらしく答えた。「何だか少し外気に触れたいと思ってね。……君一人なのか。」
「ええ。ちとお歩きになりませんか。」
「そう、僕もそんなことを思っていた所だ。」
 こう云って叔父は窓を閉じた。
 彼は樹の幹に身をもたせて空を仰いだ。障壁がとれて直接に叔父の心と見合せたような気がした。そして北斗星の尾を延長してその線に当る星々を一つ一つ見つめながら、大空に一直線の視線を画いた。
「何処へ行くんだ。」と間もなくやって来た叔父が尋ねた。
「そうですね……。」と彼は漠然と答えた。
 それでも二人は言い合したように庭の奥の方へ歩き出した。
 彼は父母の遺産をついでこの広い邸宅を守ってから、花壇や狭い畑地を壊して、大木を選んでむやみと植え込ませた。遠くより見れば殆んど森のようになった屋敷も、時々植木屋の手が入るので、その中にふみ込むと矗々と並び立った木立の下影には案外広濶な空地が開けていた。二人共沈黙のうちにその中を歩き廻った。
 梢からちらちらと洩れる星影を頼りにほの暗い中を歩いていると、彼は傍に立っている者の叔父であることを殆んどうち忘れた。彼は其処に只一人の人間を見た、病に寿命を縮められた人を、昔の恋人たりし人妻の家に遙々訪れて来た人を、そしてまた自分の敬愛する一人の畏友を。
「あなたは、」と彼は云った。「御病気なすってから何か人生観というようなものがお変りにはなりませんでしたか。」
「そう、むずかしいことは分らないが、物の見方というようなものは変化したようだね。」
「どんな風になんです?」
「何でも僕は先へ先へと考えすぎたようだね。所が病気をしてからは過去を振り返ってみるようになったような気がするよ。それが他《ほか》の事物を見る時にまで伝染して来たようだ。まあ云ってみれば、植物を研究するんでも発生的の方面をばかり見ようとする傾向が嵩じてきたようだ。保守なんだね。」
「中年に入《はい》られようとする故《せい》もあるでしょう。」
「そうだね。病気と云っても僕のはまだ自分でそう悪くは感じないんだから。」
「私なんかも、少し身体の加減がよくない時には妙に引き込み思案になりますが、平素はあまり先へ先へと急ぎすぎて、何にも掴まないうちに凡てを通り越すんじゃないかとよく思います。」
「それでいいんだろう。」と一寸叔父は言葉をとぎらして、また言葉をついだ。「君の家へ来てから特に僕はそう思うよ、君の生活と僕の生活とが余りにかけ距《へだ》っているというようなことをね。何しろ君の家には若い者ばかりなんだからね。」
「何かお気を悪くなさるようなことはありませんでしたか。」
「君もよほど神経過敏の方だね。」と叔父は笑った。
「でも何だか当《あて》が外《はず》れたというような御不満がありませんでしたか。」
「少しは……そう云えばそんな感じもあるね。」
「あなたは私達の恩人だと思っていますから……。」
「僕はもうそんなことは考えてなんぞ居ないよ。」と突然叔父が遮った。
「いえ、私はいつかほんとに心から叔父さんに感謝したいと思っていました。そしてまた、叔父さんの生活が非常に崇高なもののように思えますので、いつかゆっくり御話がしてみたいと思っていたのです。」
「君達はあれからずっと幸福なんだろうね。」
「ええ。そして私はまたある意味で叔父さんも幸福でしょうと……幸福であらるるようにと祈っていました。」
「幸福と云えば僕はやはり幸福だよ。誤った出立をしなかったと思うからね。」
「ええ。然し……。」と云って彼は口を噤んだ。今の叔父が出立を誤らなかったというのは。その先を考えて彼はじっと眼を伏せた。
「何だ?」
「いえ、私もそうですが、叔父さんもお弱いようですね。」
「そう、自分でそんな風に考える時もあるよ。」
 それきり二人は黙ってしまった。彼は我知らず一人で儚《はかな》いものの方へと思いを馳せた。人性の底を流るる情操が如何なる形式のものであろうと、それをいたわろうとする所に常に残る痛々しい感情などを。
 叔父は暫く沈黙のうちに彼と並んで歩いていたが、急に足を止めた。
「どうかなすったのですか。」
「なに少し寒けがするようだから。」
「ああ、あまり長く外に居すぎたようですね。お身体に障るといけませんから。」
「いや、そんなでもないんだが……。でも今夜はお互にはっきりした話が出来て大変愉快だった。」
 家に入《はい》って電気の光りで見ると、叔父の頬が堅く引きしまっているのに彼は気附いた。そして心持ち青白くなっているのを。彼はその冷たそうな顔を暫く見守っていたが、やがて丁寧に頭を下げた。
「御悠《ごゆっく》りとお休みなすって下さい。」
 そして彼は叔父が扉《ドア》をしめた音を暫く其処に佇んで聞いていた。

 朝寝の習慣がついてしまっていたので、翌朝彼が起き上ったのはやはり太陽が高く上った後であった。そよそよと風に揺ぐ新緑の葉の一つ一つに日光が輝いて、そして雀の群が楽しい叫び声で呼び交していた。
「叔父さんは?」と彼は女中にきいた。
「早くから、野原に出て来ると仰言いまして御出かけになりました。」
 彼は庭に出て新鮮な空気を吸い、そして室に帰って叔父を待った。昨夜のことが夢のようにかすんでゆくのを、追《お》っかけるようにして心のうちに回想してみた。追憶がやさしい形を取って、現在の自己と何等交渉のないような朧ろなものを見せてくれた。その中に北斗星が明瞭《はっきり》と光り輝いて彼の頭に映じた。
 其処に叔父が何処か晴々とした顔をして帰って来た。凡てを忘れたもののようにして、そして長い間の親しみを持ったもののようにして。
「よく御眠りになりましたか。」
「ああ。今朝は大変気持ちがいいね。」こう云って親しい笑顔《えがお》を見せてくれた。
 朝とも午《ひる》ともつかぬ食事をしてから、叔父は三時五十分ので発《た》つと云い出した。せめて葉子が帰ってくるまで、と云って皆でとめた。そして彼とたえ[#「たえ」に傍点]子と叔父と三人で客間の方へ坐って、他愛ない世間話などをした。然し会話は往々とぎれ勝ちであった。沈黙が襲ってくると、彼等は急いで何かの話題を探した。三人共皆、心のおけないような安らかさにあり乍ら、沈黙が新らしい何物かを齎すことを恐れたので。
 彼はそういう対座が非常に疲労を来すものであることを感じた。そして沈黙の合間合間に頭を抬げようとする反撥の感情があるのに気附いていた。叔父が強く自分の心を押えつけているような努力の跡をも見た。それが身体に障りはしないかとも気づかった。
「昨日から僅か一日だが、大変長い間のことのように思えるね。」と叔父は思い出したように云った。
「ええ、私も何だか長く滞留なすっていらっしたような気がします。」
「それではこれからまた新らしく京都《あちら》に赴任するつもりで出かけるかね。」
「そうです、何時も新らしい気分で生きてゆくと張り合いがあるような気がしますね。」
「然しやはり生活は何時も同じだからね。」そう云って叔父は苦笑した。
 葉子が帰って来た時、彼はほっと助かったというような気がした。
「今日お帰りなさるの? まあ!」と云って葉子は眼をみはった。
 何にもすることが無かったので、三人は気が進まなかったけれど、葉子がすすめるままにトランプを又はじめた。札《ふだ》を切り乍ら葉子はこんなことを云った。
「口惜《くや》しくてお帰りになれないように、叔父さんをたんと負かしてあげるわ。」
 西に傾いた日影の移ってゆくのが眼に見えるように早く感じられた。頼り無いような気分が室の中に漲って、三人共、それに浸り乍ら、過ぎ去って行くものの影をじっと見守っているような心地で居た。只葉子ばかりはひたすら骨牌に身を入れた。
 叔父は七時の列車を取ることにきめた。晩餐の時に彼は葡萄酒をすすめた。叔父も心地よく二三杯のみ干した。
 停車場に皆《みんな》して出かける時、彼は妻の顔を見守った。彼女は媚びるような眼附をして彼の眼を見返した。それから彼は妙に落ち着かない気持ちで外に出た。叔父が今一度家の方をふり返って見た時、彼は空を仰いで昼から夜に移りゆく蒼空の暮色を眺めた。
 新橋には早や多くの旅客が込んでいた。去る者の躁忙《あわただ》しさと送る者の頼り無さと、それから醸《かも》される一種の淡い哀愁のみが彼の心を満した。彼は多くの人の群から自分を遠くに置いて、落ち着いた気分で、騒々しさの底を流れる「寂寥」に思い耽った。
「大分込みますね。」
「ああ。でもじきに寝台車の方が開《あ》くからね。」
 叔父は列車の窓から、外に立っている彼とたえ[#「たえ」に傍点]子とを順々に見守った。そして眼をそらして向うに立っている大勢の見送人の上を眺めた。
 彼は窓際に歩み寄った。
「此の次には御悠《ごゆっく》りいらっして下さい。」
「君も一度は京都にやって来給え。」
「ええ是非一度は行ってみようと思って居ます。」
「なるべく早い方がいいね。」と叔父は云った。そして睫毛がちらと動いた。
「御大事に。」と列車が動き出した時彼は云った。そして頭を下げた。
 叔父は黙って皆に答礼した後、すぐに窓をしめてしまった。
 ぞろぞろと足を返して行く見送り人の間に彼等は立って、青白く光るレールに沿って眼を走せ乍ら、去り行く列車の影を見送った。



底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「帝国文学」
   1914(大正3)年5月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング