。その思い出が親しくなり美しくなるに従って、それを寂滅為楽の途に進むことと思っているらしいんだ。そして遂には前に進むことを知らないで、過去へ過去へと全く向き返ってしまって退くばかりなんだね。」
「それでは時《タイム》というものを全く征服してしまったのではないでしょうか。」
「そうも云えるだろうが、また反対に時に征服されたんだとも云えるだろうね。」
彼は叔父の語る所に先刻から何かの強い意志の籠っていることを感じていた。それで煙草をすすめてみた。
「僕はすっかり煙草は止《よ》してしまったよ。」こう云って彼は淋しい微笑を顔に漂わした。
「お身体《からだ》でも悪くて被居るのですか。」とたえ[#「たえ」に傍点]子が尋ねた。二人共叔父が時々軽い咳《せき》をしているのに気附いていた。
叔父の語る所によると、彼は大分前から肺を侵されているとのことである。自分では時々肩の凝《こ》りを感ずる位だけど、医者の言によれば右肺に大分|浸潤《しんじゅん》があるらしい、そして激変を憂うるとのことである。
「それでは会社の方もお止めなすったら。」
「なに、人間は何かしていないと淋しいからね。」と彼は云った。それから急に調子を低くして、「実は旅も医者の方から禁ぜられているんだけれど、悪くなる前に一度君達にも逢いたいと思ったものだからね。」
凡てのことがはっきり分って来たように彼には思えた。憐れむのでも同情するのでもなく、ただじっと叔父の心を見つめているような心地で、彼はその顔の淋しい陰影を見守った。
「それでは四、五日ゆっくり休んでいらっしたらいいでしょう。」
「いや後でまた医者に叱られるといやだからね。」そして叔父は他愛なく笑った。「それに種々な雑務もひかえているんだから。」
「ではあの父が居た室が今あのままになっていますから、お嫌でなかったらゆっくりと疲れをお休めなすったらいいでしょう。」
「ああそれは結構だね。然し別に病人というんではないから、どうかかまわないでおいてくれ。その方が自由でいいからね。」
それで彼は妻と一緒に、もと父が居た部屋を清めて、窓際に柔かなソファアを据えたり、卓子《テーブル》の上に美しい水菓子を並べたりした。叔父は黙って窓から庭の植込みを見ていた。
「あの木は暫く見ないうちに随分大きくなったもんだね。」と云って青々とした芽を出している梧桐《あおぎり》を指した。
「
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