なたは先廻りをして、あの女と落合っていらしたんでしょう。図々しいにも程があるわ。あなたはそれでも恥しくないんですか。」
「いや僕は会社に行って遅くまで用をしていたんだ。」と私は臆面もなく云った。「嘘だと思うなら、会社に電話で聞いてみるがいい。」
「いいえ、嘘です、嘘です。」
 そして彼女はどうしても聞き入れなかった……がそれは後のことである。
 私は俊子がいないのにほっと安心すると共に、また一方には不安にもなりながら、二階に上って、飜訳の原稿や五六通の書信を片付けたり、書棚の中の書物を並べ直したり、机の抽出の中のこまごました物を見調べたり、額縁の曲ってるのを掛直したり――何のためにそんな下らないことをしたのだろう!――そして合間合間には腕を組んで室の中を歩いたりしてるうちに、今迄甞て知らない種類の焦慮に襲われてきた。「晩に河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ、」という光子の言葉から糸を引いて、俊子がいつも河野さんに金を借りにいったこと、彼女が結婚前から――子供の時から――河野さんと往来していたこと、河野さんの性情や私達の冷かな夫婦生活、そんなことが一時に忌わしい影を拵えて、私の頭に映
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