に隠れるようにして両手で額を押えた。もう何もかもめちゃくちゃになった気がした。彼女の言葉の奥には、いろんな感情がごったに乱れていた。単に河野さんとのことばかりではなく、私や松本のことなんかも、主客転倒して一緒にはいっていたかも知れない。私は頭の中で、何もかもめちゃくちゃになってそしてこんぐらかってしまった。その上なおいけないことには、妻に対する疑惑が頭の隅に引っかかってきた。
私達はそれきり長い間黙っていた。何処かで小鳥の鳴く声がしたようなので、私はふと顔を上げた。光子は彫像のように固くなって考え込んでいた。が私の視線を感じてか、ふいに彼女は立上った。私も立ち上ったが、不覚にも涙をこぼした。
「どうする?」
「やっぱり……仕方がないわ。」
「それでも……。」
「もう駄目よ。」
私は屹となって涙を拭いた。
「僕が河野さんに逢いに行こう。そして……。」
「いえ、いけないわ、どうしてもいけないわ。」と彼女は何故かむき[#「むき」に傍点]になって遮った。
「じゃあ止すよ。」
私達はじっと眼を見合せたが、心に相通ずるものは何もなかった。彼女はぴくりと眉根を震わして云った。
「私、もう帰るわ。」
私は黙って首肯《うなず》いた。
「では、先生、これで……。」
そして彼女は改まったお辞儀を一つした。その先生というあの時以来初めての言葉と、その時彼女の頸筋にはっきり見えた生々しい紫色の痣とが、今でも私の心にはっきり残っている。
彼女が出て行った後、私は椅子に身を落して両手に顔を埋めた。涙がしきりに出て来た。その泣いている自分自身に気がつくと、急に訳の分らない苛立ちを覚えて、前にあった葡萄酒を半分ばかり飲んでしまった。それから其処を出て、その足ですぐ会社へ行き、急な雑用をすっかり片付けておいて、途中で食事を済まし、晩の八時頃家に帰った。
私は平素の自分を取失ったようになっていた。絶えず万一のことを期待する気持に駆られていた。その万一が何のことだかははっきりしなかったが、光子からあの変な話をきかされた時から、何もかもこんぐらかって圧倒されるような心地の底に、ただ一つ、或る漠然とした万一の場合を予想する念が萠して、それが次第に私を囚えていった。泣いてる自分自身に気付いて苛立ったのも、会社へ行って大体の用を片付けたのも、食事後すぐに家へ帰ってきたのも、みなそのためだった。家へ帰って私は書斎の山を片付けるつもりだった。
この万一の場合を予想する気持は、これまでにも時々、ふっと日が影るような風に、何等はっきりした理由もなく起ってくることがあった。それは生活気分がたるんで心身がだらけてる結果だったろうが、その日のは変な重苦しい重圧となって、私の上にのしかかってきた。光子との会見があんな風に終って、愈々もう駄目だという絶望が濃くなるにつれて、私は一刻もじっとしてはいられなかった。多分河野さんの家へ行ってもう帰ってる筈の俊子と顔を合せることも、ひどく不安であったけれど、そんなことに構ってはいられなかった。
所が家へ帰ってみると、俊子は不在だった。女中に聞けば、俊子は午後中じっと家にいて、それから晩になると慌だしく支度をして、俥に乗って出かけたそうである。後で分ったことだが、彼女は河野さんの家へ行くのが何だか嫌で、ぐずぐずしているうちに夕方になって、いつも三時頃には社から帰る私が帰って来ないし、不安な思いが募ってきて、どうにでもなれという気で出かけたのだった。
「虫が知らしたんです。」と彼女は云った。「私はどうしても行きたくなかった。そしてぐずぐずしているうちに、あなたは先廻りをして、あの女と落合っていらしたんでしょう。図々しいにも程があるわ。あなたはそれでも恥しくないんですか。」
「いや僕は会社に行って遅くまで用をしていたんだ。」と私は臆面もなく云った。「嘘だと思うなら、会社に電話で聞いてみるがいい。」
「いいえ、嘘です、嘘です。」
そして彼女はどうしても聞き入れなかった……がそれは後のことである。
私は俊子がいないのにほっと安心すると共に、また一方には不安にもなりながら、二階に上って、飜訳の原稿や五六通の書信を片付けたり、書棚の中の書物を並べ直したり、机の抽出の中のこまごました物を見調べたり、額縁の曲ってるのを掛直したり――何のためにそんな下らないことをしたのだろう!――そして合間合間には腕を組んで室の中を歩いたりしてるうちに、今迄甞て知らない種類の焦慮に襲われてきた。「晩に河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ、」という光子の言葉から糸を引いて、俊子がいつも河野さんに金を借りにいったこと、彼女が結婚前から――子供の時から――河野さんと往来していたこと、河野さんの性情や私達の冷かな夫婦生活、そんなことが一時に忌わしい影を拵えて、私の頭に映
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