私は雨のしとしと降る中を出かけていって、もっと降れもっと降れという明るい気持で、新らしい石鹸と剃刀と白布とを買って来た。その白布を六七尺の長さに鋏で切った。猿股でなく褌を用いるのが私の気に入った。馬鹿に高価だと思いながら一番匂がいいと云われて買って来た石鹸は、見馴れない黒い真円いものだった。それも私の気に入った。よく切れるのをと云って買ってきた剃刀は、まだ本当に刃が立っていないらしかった。私は仕方なしに革砥ですっかり研ぎ上げた。そしてその三品を書棚の抽出にしまった。
 所が、一切の準備が出来上ってから、これで俺は死ぬのかしら、本当に死ぬのかしら……という疑いが起ってきた。何しろ私はごく自由な晴々とした気持になっていた。松本と光子よ、君達は輝かしく生きるがいい、河野さんよ、あなたは金の力で勝手な真似をなさるがいい、俊子よ、お前は俺から解放されて自由な途を歩くがいい、子供等よ、お前達は力強く生長するがいい、其他私の知ってる人々よ、君達は健在であれ!……そう呼びかけたいような気に私はなっていた。これで死ぬのかしら……と私は不安になり初めた。そして、いや死ぬものか! という思いと、いや死ぬのだ! という思いとが、同じ強さで起ってきた。
 私は自ら茫然としているうちに、ふと思いついて、この気持に落着《おさまり》をつけるために、事件の一切を書き誌してみようと決心した。そして殆んど寝食を忘れて書き続けてきた。すると、妙なことが起ってきた。
 井ノ頭の翌朝、私は一種無批判な盲目的な心境に陥ったことがあるが、それと似寄って而も気分は全く異った心境に、私は次第に浮び上っていった。あの時は陥ったのであるが、こんどのは浮び上ったのである。無批判ではなくて一切の批判を絶した、盲目的ではなくて眼をじっと見開いた、昼でもなく夜でもない薄ら明りの、落着いた静かな空しい心境だった。何のために? ということがないと共に、なぜ? ということも一切なかった。そして心の奥から、そうだそうだ! という声が響いていた。何がそうだかは分らないが……と云うより寧ろ、何がそうだかは問題でなくて、ただ静かにそうだった。髪の毛一筋も埃一粒も揺がないで、ただ静かにそうだった。
 斯くてあれかし!……ふとそんな文句が私の心に浮んだ。死も生もその境をなくして、ただ斯くてあれかし!
 私は死ぬかも知れない、或は死なないかも知
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