仰言るの?」
 真剣だとも皮肉だともつかないその調子に、私は遠くへ突き離された気がした。そして両手で頭を押えながら、それでもなお縋りついてゆこうとした。
「どうすることも、僕にはどうすることも出来ない。ただお前が何とか云ってさえくれれば……。」
 彼女は黙っていた。
「いろんなことがさし迫ってるのだ。……もう何もかも云ってしまおう。実は昨晩松本君が来て、すっかり打明けてから、お前を僕の家へ引取っておいて暫く交際さしてくれと、そう云うのだ。そして結局、俊子が今日お前の所へ行って、お前の心をよく聞いた上で……ということになっている。午後には行くだろう。それで僕は……。」
「え!」彼女は声を立てた。「奥さんが私の所へ?」
 彼女の喫驚した様子に私は眼を見張った。
「本当?」
「本当だとも。だから僕は……。」
 私は云いかけて止した。彼女はふいに飛び上ろうとしたが、それをじっと押しこらえるような表情をして、頬をぴくぴく痙攣さした。それから突然顔色を変えて、その引きつったままの口元に、嘲るような影を浮べて、いきなり病的に笑い声を立てた。
「いらっしゃるがいいわ。昼間よりか、晩にでも、そして……河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ。」
「何だって!」
 彼女はまた病的な笑い声を立てた。
「河野さんの所へいらっしゃるがいいわ。どんな風だか、私影から覗いててやるから。……男って可笑しなことばかり考えるものね。私を捉えて、俺はお前だとは思っていない、草野の細君だと思ってるんだって……。だから私も云ってやったわ。私もあなただとは思っていない、草野さんだと思ってるって。その時の喫驚なすった顔ったらないわ。それで私はなお云ってやった、私はもう身体は草野さんの奥さんと同じだから、どうか思う存分にって。いくら恐い眼付で見られたって、私びくともしやしない。そして云うことが振ってるわ、俺が悪かった、草野の細君というのはただお前の心をそそるための手段で、実は誰の細君でも何処の女でもいいんだ、そんな者はいやしない、俺が悪かったから誤解しないでくれ……そう云って頭を下げなさる所へ、私かじりついていってやったわ。人を馬鹿にして、じじいのくせに!……でも、何もかも馬鹿げてるわ、初めからみんな馬鹿げてるわ。」
 彼女の真蒼な顔はなお蒼ざめて、眼だけが異様に輝いていた。私はそれに堪えられなくなって、菊の花の影
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