妙に暖い薄曇りの日だったが、そのなま白い朝の明るみの中で、私は自分の姿を堪らなく惨めに感じ、その感じが前々日来の記憶に更に助長せられて、凡てに反撥するような心地から、前夜妄想のうちにふと浮べた決心を、私はほんとに固めてしまったのである。その決心とは、光子に逢ってみることだった。逢ってどうしようというのではない。逢ったらどうにかなるだろうというのだった。恐らくは、前夜松本に余り歯が立たなかった不満や、俊子の様子から受ける不安や、事情の切迫から来る脅威や、光子に対する好奇心や、自分の性的無力を証拠立てられた苛立ちや、其他いろんなこと――自分にだって一々分るものか――何やかやがつけ加わってはいたろうけれど――要するにそれは私にとって、凡てのものに対する最後の反抗の試みだった。道徳的な批判や良心なんかは、私には少しもなかった。
 そこで私は、その午前中には俊子が出かけられないことを推測し――俊子より前に光子へ逢わなければいけなかった――会社へ行く風をして朝早めに出かけ、河野さんの家のまわりをひそかにぶらつき、十町ばかり離れた所に場所を選定し――他に適当な場所が見当らなかったので、電車通りから一寸はいった洋食屋の二階にした――それからわざわざ自動電話を探して、河野さんの家へ――光子へ――電話をかけた。私はごく冷静に落着き払って、それだけのことをしたのである。
 電話口に出て来たのは、たしかに光子らしかった。所が私が名前を云うと、向うはぴたりと口を噤んでしまった。話しかけても答えがないので、「もしもし」と呼んでみると「はい」という返辞がした。話しかけるとまた答がない。呼ぶと返辞だけする。そんなことを三度ばかり繰返した後、私は確かに光子が聴いてだけはいると信じて、是非逢いたいことがあるから来てくれと繰り返して執拗に頼んだ。所がやはり答がなかった。私は暫く待ってから再び懇願した。すると突然怒ったような声が響いた。
「それでは参りますわ、じきに。」
 そして電話は切られた。私はぼんやり自動電話の箱から出て、約束の洋食屋へやって行ったが、どうしたのか、目的を達したという喜びは少しも感じなかった。否喜びどころではなく、次第に不安を感じてきた。
 可なり立派な西洋料理店だったが、朝のうちのせいか、階下の広間に四五人の客がいるきりで、落着きのない静けさにがらんとしていた。二階に上ると、幸
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