彼女は姓までつけ加えて名のった。彼女の姓が月岡だということは前からよく知ってはいたが、電話で改めて聞かされると、それが私の頭の中で物珍らしく躍ったものだ。
「お目にかかって至急お話申上げたいことがございますが、そちらへお伺いしても宜しゅうございましょうか。」
「さあ……。」と私は口籠りながら、余りの意外さに躊躇したものの、相手の急《せ》き込んだ語気からして、何かしら切羽《せっぱ》つまった心を感じて、兎も角もお出でなさいと承知してしまった。
 彼女が私に逢いに会社の方へやって来るということは、私と彼女とのこれまでの関係からすれば、全く調子外れのものだった。来るなら自宅の方へ来そうなものだ、そして私の帰りが待ちきれないというなら、妻へ話しても用は足りる訳だ、などと私は考えながら、また一方には、それを押して会社へ出かけてくるくらいだから、何かよっぽどの事件に違いない、などという好奇な期待の念が、私の心に甘えかけてきた。
 一時間ほどたって、彼女は会社へやって来た。その間に私は、大体の仕事を急いで片付けて、いつ会社を退出してもいいようにしておいた。勿論意識してそうしたわけではなく、自然に気が急《せ》いてそういう結果になったのだった。一体私は、平素はのらくらしていて随分|懶《なま》け者だが、一朝事があると――と云えば大袈裟だけれど、例えば子供が病気で入院したりなんかしてる場合には、人手の少い家の中でいろんな用をしながらも、平素の幾倍となく自分の仕事を捗らすのである。「あなたくらい妙な人はない、忙しい時ほど仕事がよくお出来になるんだから。」と妻はよく私に云ったものだが、私としては、泰平無事な時よりも、苦しい脅威が迫ってくればくるほど、心に張りが出来るし働き甲斐があって、ぐんぐん仕事が進むのである――仕事といっても、英語の小説の飜訳くらいなものだが。然しそういう状態はいけないものだった、少くとも変則のものだった。多くの人は落着いて仕事をしたいと云うのに、私だけは、落着いていては仕事が出来ないというのだから。それに……いやこのことも先で云うことにしよう。
 私は光子を応接室に通さしておいて、ゆっくりと心構えをしながら出て行った。光子は私の姿を見ると、喫驚したように立上ったが、ぎごちないお辞儀を一つすると同時に、微笑とも苦笑ともつかない影を顔に漂わして、そのまま腰を下ろしてしまった。
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