、案内してあげましょうか。」と私は小声で云った。
「ええ。」と彼女はまたどうでも構わないという調子で答えた。
 電車の中に彼女と並んで腰掛けて、ステッキの頭に両手をのせ、ぼんやり車外の景色に眼をやってるうちに、私は一寸そうした自分の姿に苦笑したが、別に他意あって光子を連れ出すわけではなく、心さえしっかりしていて過を犯さなければ、彼女と半日の秋の光を浴びるくらい何でもないことだと、至極呑気な気持に落着いていった。たとい友人に出逢って何とか揶揄されても、私は顔に一筋の赤味も浮べないで、反対に相手を揶揄することが出来たかも知れない。後で妻とひどく喧嘩をして、私は北海道の時から光子と関係がついてるのに、それをのめのめと家に引張り込み、光子が河野さんの家に行ってからも、時々媾曳してたに違いないと、とんでもない邪推を受けた時、私は落着いて次のように云ったのである。
「馬鹿なことを云っちゃいけない。いくら僕が呑気で図々しくても、もし光子と北海道で変なことがあったのなら、何で家の中にお前の側に引張り込むものか。僕はまだそれほど精神的に堕落はしていないつもりだ。勿論結果から見れば、僕はお前に何と云われたって仕方ないけれど、初めから破廉恥な計画なんかは少しもなかったのだ。僕は光子を井ノ頭に連れて行く時、別に何という気持も持ってやしなかった。ただ彼女からその大事なという話を聞こうと思っただけだ。光子が女だったのがいけないのだ。僕が誰か或る男と井ノ頭に散歩に行っても、お前は気を揉みもしなければ、何とも思いはしないだろう。女だって同じさ。僕はこう思ってる、夫婦というものは一つの生活をしてるのであって、その一つの生活ということのために、恋人同志やなんかよりも、もっと深く堅く結び合されてるのだと。もし僕が独身だったら、若い女やなんかと一緒に歩いたりする時、僕は屹度妙な気分に心をそそられるに違いない。然しお前と夫婦の生活をしてるので、一つの生活をしてるので、若い女の前に出ても僕は平気でいられるのだ。そういう所に、夫婦生活の強みと自由とがあるわけだ。妻を持ってる身の上だから若い女と一緒に歩くのは悪いというのは、本当の夫婦生活を知らない者の言葉だ。夫婦生活とはそんな堅苦しい窮屈なものではない。僕は光子と井ノ頭に行った時、少しも心にやましさを感じはしなかった。僕はお前と一緒の生活にしっかり腹を据えている
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