あの専務には物が分らないから、僕は黙っていてやったが、もし物の分る専務だったら、そして僕がそんな風に話をしたら、さぞ面白いだろうと、想像のうちで楽しんだのさ。叱られたお影で一寸面白い夢をみることが出来たのだ。」
「なあんだ、つまらない。」
 同僚に一笑されて、長谷部はそれが腑に落ちない顔付をした。
 そのことがやがて、退屈な会社の中では、噂話の一つとなった。
 然し、考えてみると、もし会社の執務時間を長谷部が云う通りにしたら、それを最もよく利用するのは、恐らく利用しすぎて自分でも困るのは、長谷部自身だったろう。
 次のような話がある。
 それは彼が或る学校に勤めてる時のことだった。彼は会社を止して、ひどく食うに困って、先輩の世話で学校教師になったのだった。会社員は彼の柄でなかった……が、教師もまた彼の柄ではなかった。彼は教師中で一番欠勤が多かった。
 学期末の試験が済むと、各科目の担任教師は、一定の期日までに採点して報告しなければならなかった。期日を一日でも後らせば、成績発表に支障を来すのだった。
 長谷部は試験の答案を見るのがひどく嫌だった。いつも後れがちになった。学校からは催促が来た。で彼は愈々となった或る日、二百枚に近い答案を一日のうちに見てしまわなければならなかった。今日は誰が来ても不在だ、とそう家の人に頼んだ。
 七月の中ばのことで、晴れやかな日の光が縁先に落ちていた。その光の中に、赤い蟻が二三匹這い廻っていた。彼はそれにふと眼を止めて、蠅を叩き落してきて、蟻にやった。蟻は自分の身体の何十倍も大きい蠅を、三足四足引きずったが、引ききれなくなると、一寸その側を離れ、またすぐに戻ってきて、暫く嗅廻る風をして、こんどは一散に遠くへ走っていった。やがて、一群の蟻が、大きいのを所々に交えて、蠅の方へやって来て、まわりにたかるが早いか、ぐいぐい引張っていった。
 彼は立上って、更に幾匹もの蠅を叩き落してきて、蟻にやった。蟻の数は益々ふえてきた。一つの穴だけでなく、方々の穴から出て来た。そこらが真赤になるほどだった。小蟻が主として運搬にかかった。大蟻はそれを指揮するかのように、或はもっと餌物を探すかのように、あたりを駆け廻った。右と左とに引張り合ってるのがあると、大蟻が一寸加勢して、すぐに味方の方へ勝目を与えた。
 蠅は次から次へと引張ってゆかれた。しまいに彼は、半ば生
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