て、一層悄衰の様子に思われた。そして落ち凹んだ眼の中に、黒ずんだ鋭い光りがあった。
 私はその眼の光りに、いつも脅かされた。或る時、彼が門の外に出て来てるのを見ると、私はもうその前を通れないような気がした。眼をじっと伏せたまま通りかかると、足が自然に小走りになってしまった。そして後ろを振り返る勇気もなかった。
 その頃から、私はなるべくお寺の前を通らないようにした。けれども、そうするには遠い廻り道をしなければならなかった。朝少し遅くなった時なんかには、余儀なくお寺の前を通っていった。するといつも彼が立っていた。また学校の帰りにも、少し時間が早かったり遅かったりする時には、お寺の前を通っていった。彼の姿が見えないと、災難を免れたような気がした。けれども、それはごく稀れであった。
 私は近所に、同じ学校へ通うお友達を持たなかった。所が或る日、親しいKさんが私の家へ遊びに来るというので、二人で学校の帰りに、お寺の前を通りかかった。その時もまた、彼が箒を持って立っていた。私が足早に通りすぎるのも構わずに、Kさんはゆっくりした足取りで歩きながら、彼の方をじろじろ見返してるらしかった。そして私に追いつくと、Kさんはこう仰言った。
「いやな坊さんね!」
 私は何と答えていいか分らなかった。けれどもその頃から、彼の様子の変った原因は皆私にあることを、はっきり感じてきた。そして、その感じがはっきりすればするほど、益々私は途方にくれた。私は絶えず脅かされ続けた。こうして私の若い生命は、どんなにか毒されたことであろう。
 七月の或る朝、私は少し時間を後らして、急ぎ足でお寺の前を通りかかった。するとやはり彼が、箒を持ったまま、御門の柱によりかかって立っていた。私はそれをちらりと見ただけで、顔を俯向けて通りすぎた。そして十歩も行かないうちに、彼が私の後をつけてくるのを、はっきり感じた。あの痩せた骨ばかりの手で、今にも両肩を捉えられそうな気がした。どうすることも出来なかった。ありったけの力を出して駈け出してしまったけれども、七八歩走ると、息がはずんで立ち止った。もう彼がすぐ後ろに迫ってるような気がした。私はしいて反抗するつもりで、急に後ろを向き返った。すると……其処には誰も居なかった。寂しい通りが朝日を受けてるきりで、お寺の前にも人の気配《けはい》さえなかった。私は変に何かが――彼ではない――何かが恐ろしくなった。胸が高く動悸していた。
 その日私は、そのまま家に帰って、気分が悪いと義姉さんに云って、学校を休んでしまった。終日、悪夢の後のようにぼんやりしていた。
 それから私は出来るだけ、お寺の前を通らないことにした。通るのが少くなっただけに、彼の姿を見ることも少くなった。そしてるうちに忙しい試験期日となった。試験がすみ、夏休みになって、播磨の故郷へ帰る前、私は或る日の朝、お寺の前へ行ってみた。何のために行ったのか、私は覚えていない。恐らくその時でさえ、何故かというはっきりした理由は持っていなかったのであろう。
 お寺の中はひっそりとしていた。まだ露に濡れてるかと思える苔生した地面に、植込の木立をもれる日の光りが美しい色を点々と落していた。爽かな空気が一面に罩めていた。誰の姿も見えなかった。私は淡い哀愁に似た気持ちを懐いて、家に帰ってきた。彼に脅かされ続けていた私は、彼の姿を取り去ったお寺の庭に対して、何となき懐しみと物足りなさとを覚えたのである。
 それきり私は彼に逢わずに、故郷の家へ帰った。一番上の兄さんは東京に住んでおり、二番目の兄さんは幼くて死に、姉さんは大阪へ嫁いでいるので、故郷の家には両親と弟とがいるきりで、わりに淋しかったけれど、一年ぶりに父母の膝下に身を置くことは、私にとってどんなに嬉しいことだったろう。けれども今は、そういうことを書いてるのではない。私は物語りの筆を進めよう。
 故郷に帰ってるうち、彼の姿は私の頭から自然に遠のいていた。所が夏休みの終る頃、もう四五日でまた東京の兄の家へ戻るという時になって、不思議なことが私に起った。
 私の家は殆んど郊外と云ってもいい位の、町外れの野の中に在った。お父さんが主に所有地の監督をやるようになってから、その町外れの閑静な家へ引越したのであった。
 月のいい或る晩、私は一人で田舎道を散歩した。東京に住むようになってから、故郷の田舎の月夜に対して、私は一層深い愛着を覚えてきた。それには、幼い頃の思い出と月夜の平原に対する憧れとが、入り交っているのであった。その晩は殊に月が綺麗であった。銀色の光りが、遠くまで野の上に煙っていた。真白い道が稲田の間に浮き出して、稲の葉に置いてる露の香りが空気に籠り、蛙の声が淋しく響いていた。私は暫く田園の中を歩いた後、口の中で唱歌を歌いながら、家の方へ帰りかけた。すると突然に、全く突然に、私はぞっと水を浴びたような戦慄を感じた。私の後ろに、あの白い着物のお坊さんの姿が立ってるのである。私が一足歩くと彼も一足ついてくる、私が立ち止ると、彼も立ち止る。私はそれを眼に見たのではないが、はっきり心に感じたのだった。恐しさに縮み震えながら、そっと気を配ると、あたりは皎々たる月明の夜で、蛙の声が猶更野の寂寞さを深めていた。私はふり返ることも、立ち止ることも、また歩くことも出来なかった。彼の姿は私の数歩後ろに、じっと佇んでいた。私は息をつめて眼を閉じて、運命を天に任せるより外に仕方がなかった。……長い時間がたったような気がした。気が遠くなるような心地がした。そしてふと眼を開くと同時に、私は我に返った。もう彼の姿は感じられなかった。ふり返ると、誰の姿もない野の上に、一面に月の光りが落ちていた。
 幻だったのだ! けれども、ああそれがいつまでも単なる幻であってくれたなら!
 私は八月の末に、また東京の兄の家に身を置いて、学校に通うこととなった。そして、幻は単なる幻のままでなくなってきたのである。
 九月の新学期に初めて学校へ通った日、私は往きも帰りもお寺の前を通ったが、彼の姿は何処にも見えなかった。けれども二三日目から、殆んど毎朝のように、御門の中に立っている彼を見出すようになった。ただ私がいくらか束の間の安堵をしたことには、彼の白い着物が新らしく綺麗になっていたし、顔色なんかも休暇前よりはずっとよく、髪も短く刈り込まれているし、髯はいつもちゃんと剃られていた。頬はやはりこけていたが、すべすべとした艶が見えていた。箒をいつも手にしながら、私の姿を見ると、楓の幹に軽く身を寄せたりして、わざとらしい嬌態をすることがあった。顔では笑わなかったが、眼付で微笑んでいた。時とすると、楓の幹に投げかけた片手に、新らしいハンケチを持ってることなんかもあった。私はその無骨なお坊さんの様子が、かく俄に変ってきたのを見て、軽い笑いを唆られることさえあった。それからまた彼は、私の学校の帰りには少しも姿を見せなかった。彼が門内に佇んでいるのは、爽かな日の朝に限っていた。青々とした楓の葉の下に、まだ朝露を含んでいそうに思われる清らかな空気に包まれて、箒を片手に苔生した地面の上に佇んでいる彼の顔を、私は初めて美しいと思ったことさえある。
 かくて彼に対する私の警戒は次第にゆるんできた。彼から愛の心を寄せられてるということが、はっきり分ってくるに従って、若い私の心は軽い矜り[#「矜り」は底本では「衿り」]をさえ感ずることがあった。頭の奥には一種の慴えが残っていながら、二度まで見た同じような幻を、いつとはなしに忘れがちであった。ああ、媚びに脆い処女の心よ! 私はうかうかとした気持ちで、お寺の前を通って憚らなかった。
 彼と逢うのは、晴れた日の朝に限っていたが、それでも一週に一度か十日に一度くらいは、学校の帰りに顔を合せることがあった。彼は白い平常着のまま、御門の外に出て、通りをぶらぶら歩いていた。其処はいつも非常に人通りが少なかったにも拘らず、私は彼とすれ違っても別に恐れないほどになっていた。私のうちには、それほど高慢な心が芽を出していたのである。
 十月の末、私はお友達から美事な菊の花を貰って、いつもより少し遅くお寺の前を通りかかった。彼が表に立っていた。私は気にも止めなかった。私を見て少し歩き出した彼の側を、私は平気で通りぬけようとした。すると、右手に持っていた菊の花に後ろから何かが触って、花弁が少し散り落ちた。
「あ、済みません。」
 そういう呟くような声が響いた。顧みると、彼は妙に慌てたような様子で、すたすたと御門の中にはいっていった。私は笑い出したくなるのをじっと我慢した。それから次に、俄に思い当ることがあって立ち止った。もしや、もしや手紙でも袂に入れられたのではないかしら……と私は思ったのである。
 私は両の袂を探ってみた。何もはいっていなかった。身体中検めてみた。何処にも変った点はなかった……ではやっぱり単なる偶然だったのだろうか? そう思う外はなかったけれど、そうだとはっきり肯定することの出来ないようなものが、私の心の中に在った。私の疑懼の念はまた高まってきた。
 私はその頃、眠れないことがよくあった。夜中にふと眼を覚して、夜明け近くまで夢現の境に彷徨することがあった。そういう時、よく気味悪い夢を見た。夢の中で彼と追っかけっこをすることもあった。……然しそれらの事は、夜が明けると共にさっぱり拭い去られて、私は秋晴れの外光の中に、清々しい自分を見出すのであった。それなのに意外にも、ああいうことが俄に起ったのである。
 十一月十八日、その日私は学校の帰りに、お寺の前でまた彼と出逢った。彼は御門の柱によりかかって、何かしきりに考え込んでいるらしく、私が通りかかっても、胸に垂れた頭を上げなかった。私はすたすたとその前を通り過ぎた。そして二三十歩行った時、後ろから彼がついてくるのを感じた。前に見た二度の幻と全く同じだった。が私はその時、不思議にも別段恐ろしいと思う念は起らなかった。首垂れながら後をつけてくる彼の姿が――私の心に映ってる彼の姿が、一寸可笑しく思われた。私は素知らぬ風を装って、心では彼の姿を見守りながら、普通の足取りで家へ帰っていった。私の家の門には観音開きの扉がついていて、玄関と門との間が砂利を敷いた狭い前庭になっていた。門の扉は昼間はいつも開いたままだった。
 私は彼を後ろについて来させながら、家の前まで来ると、つと身を飜して門の中にはいった。それから玄関で靴をぬいで上ろうとすると、彼もやはり門の中へすうっとはいって来たのである。本当にすうっとであった。砂利の上なのに足音もしなかった。私は急に震え上った。そして玄関につっ立って、初めて後ろをふり返ってみた。すぐ眼の前に、玄関の外に、彼はじっと立っている。私は余りのことに前後を忘れた。いきなり義姉さんの所へ駆け込んだ。そして叫び立てた。
「お姉さん、早く、早く……玄関にお坊さんが私を追っかけて来ています。行って下さい。早く行って…上って来るかも知れません。」
 義姉さんは私の様子に喫驚して、何も聞き糺さないうちに、玄関へ出て行かれた。私は石のように堅くなってじっと耳を澄した。何にも聞えなかった。やがて義姉さんは一人で戻ってこられた。
「どうしたんですか。誰も来てはいませんよ。」と義姉さんは云われた。
「いいえ来ています。お坊さんが私を追っかけて来ています。」と私はなお云い張った。
 女中と婆やも其処へ出て来た。私達は四人で、一緒に玄関へ行ってみた。誰も居なかった。門の外へ出てみた。通りにはお坊さんらしい姿は見えなかった。
 然し、私は現に彼の姿を玄関で見たのだった!
 私は義姉さんに尋ねられて、初めからのことを、去年からのことを、すっかりうち明けた。話の半ばに兄さんも帰って来られた。義姉さんはその日のことを手短かに話された。私は初めからのことをまたくり返した。兄さんは黙って聞いていられたが、私が話し終るのを待って、こう仰言った。
「それはありそうなことだ。……もっと早くうち明ければいいのに、隠してるからいけないんだ。」
 そして結局
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