ういうことが三月のはじめにも一度あった。
私はそれを兄さんに隠した。なぜだか分らないが、どうしても云えなかったのである。そして遂に最後の日がやって来た。
三月の十二日、その日は朝からどんより曇って、そよとの風もない、妙に頼り無い気のする日であった。朝は廻り途をして学校へ行った。帰りに廻り途をしようと思ったが、兄さんが少し風邪の心地で家にぼんやりしていられるのを思い出して、早く家に帰りたくなり、何の気もなく真直に戻って来た。
お寺の門の柱によりかかって彼が立っていた。私は平気を装いながら通り過ぎようとした。その時彼は何と思ったか、私に一寸お辞儀をした。私もそれに引きこまれてお辞儀をしてしまった。それから、私は俄にぞっと全身に慄えを覚えた。今迄と違って、妙に真剣なものが感じられたのである。駆け出そうとしたが出来なかった。自分の足が非常に重く思われた。私は歯を喰いしばって歩き続けた。彼が私の後から常に七八歩の間隔を保ってついてきた。漸く家の前まで来て、私が門の中へはいると、彼も中へはいって来た。私が玄関に立った時、此度は不思議にも――否この方が不思議ではないのだけれど――、玄関の方へやって来る彼の足音が、門内の砂利の上にはっきり聞えた。私はもう堪らなくなった。後ろをふり返る余裕も、靴をぬぐ隙もなかった。靴のままいきなり上に飛び上って、奥の室へ駆け込んだ。義姉さんがお仕事をしていられる傍に、兄さんは褞袍を着て寝転んでいられた。
「お坊さんが!」と私は一声云ったきり、其処につっ伏してしまった。
兄さんにはすぐそのことが分ったらしかった。褞袍をぬぎ捨てると、玄関へ出て行かれた。私は上半身を起して玄関の方へ耳を澄した。暫くすると……ああやはり本当だったのだ! 誰かに話しかけてる兄さんの声が聞えた。その声に義姉さんも喫驚して立ち上られたが、すぐにまた坐って私の靴をぬいで下すった。私はされるままに任した。手先が震えて寒気《さむけ》がしていた。袴も義姉さんに手伝って貰ってぬいだ。義姉さんから私は奥の室へ連れて行かれた。
「此処にじっとしていらっしゃい、すぐにまた来ますからね。心配なことはありませんよ。」
そう義姉さんから云われて、私は熱い涙がはらはらと出てきた。義姉さんは立って行かれたが、暫くしてまた戻って来られた。私達は彼のことについては一言も口を利かなかった。私は寒気がす
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