と突然に、全く突然に、私はぞっと水を浴びたような戦慄を感じた。私の後ろに、あの白い着物のお坊さんの姿が立ってるのである。私が一足歩くと彼も一足ついてくる、私が立ち止ると、彼も立ち止る。私はそれを眼に見たのではないが、はっきり心に感じたのだった。恐しさに縮み震えながら、そっと気を配ると、あたりは皎々たる月明の夜で、蛙の声が猶更野の寂寞さを深めていた。私はふり返ることも、立ち止ることも、また歩くことも出来なかった。彼の姿は私の数歩後ろに、じっと佇んでいた。私は息をつめて眼を閉じて、運命を天に任せるより外に仕方がなかった。……長い時間がたったような気がした。気が遠くなるような心地がした。そしてふと眼を開くと同時に、私は我に返った。もう彼の姿は感じられなかった。ふり返ると、誰の姿もない野の上に、一面に月の光りが落ちていた。
 幻だったのだ! けれども、ああそれがいつまでも単なる幻であってくれたなら!
 私は八月の末に、また東京の兄の家に身を置いて、学校に通うこととなった。そして、幻は単なる幻のままでなくなってきたのである。
 九月の新学期に初めて学校へ通った日、私は往きも帰りもお寺の前を通ったが、彼の姿は何処にも見えなかった。けれども二三日目から、殆んど毎朝のように、御門の中に立っている彼を見出すようになった。ただ私がいくらか束の間の安堵をしたことには、彼の白い着物が新らしく綺麗になっていたし、顔色なんかも休暇前よりはずっとよく、髪も短く刈り込まれているし、髯はいつもちゃんと剃られていた。頬はやはりこけていたが、すべすべとした艶が見えていた。箒をいつも手にしながら、私の姿を見ると、楓の幹に軽く身を寄せたりして、わざとらしい嬌態をすることがあった。顔では笑わなかったが、眼付で微笑んでいた。時とすると、楓の幹に投げかけた片手に、新らしいハンケチを持ってることなんかもあった。私はその無骨なお坊さんの様子が、かく俄に変ってきたのを見て、軽い笑いを唆られることさえあった。それからまた彼は、私の学校の帰りには少しも姿を見せなかった。彼が門内に佇んでいるのは、爽かな日の朝に限っていた。青々とした楓の葉の下に、まだ朝露を含んでいそうに思われる清らかな空気に包まれて、箒を片手に苔生した地面の上に佇んでいる彼の顔を、私は初めて美しいと思ったことさえある。
 かくて彼に対する私の警戒は次第にゆる
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