案外、読者の眼をごまかせるかも知れない。内容が古くさいのは何とも致し方ないが、これとても、一種の皮肉として通用しないとも限らない。一人の男をめぐって、その細君と馴染みの芸者との間の、とんちんかんな変梃ないきさつの事実メモだ。
小説家たる者は、平素の心掛けや勉強が大切だ。何が役に立つか分らない。おれはそのノートを原稿用紙に清書することを、本間さよ子にやらせた。自分ではさすがにばかばかしくて出来ないし、時間もない。
さよ子は、まあ謂わば文学志望者で、おれの家にいて、家事の手伝いをしたり、原稿や書信の整理をしたりしている。前には或る出版社に勤めていたが、のろまで役に立たなくて持て余されているのを、おれの方に引き受けたのだ。のろまで役に立たないというのが、おれの気に入った。家庭においては、女のきれ者はすべて禁物だ。
ノートの清書を頼んで、おれは言った。
「君の勉強になることだから、一生懸命にやってごらん。清書をするという気持ちではなく、半ばは自分で創作をするという気持ちで、足りないと思うところは自由に書き足すんだよ。」
さよ子の態度にも眼の色にも、神妙な意気込みと歓びとが見えた。それが却っておれには不安になった。暫く考えてるうち、大事なことを思い当った。彼女は芸者の言葉など恐らく聞いたこともあるまい。芸者をダンサーに変えたらどうか。ダンサーの言葉なら、彼女がよく識ってる女編輯者の言葉と、大差なくごまかせるだろう。それの方が、作品もモダーンになる。つまり、彼女の無知が却って作品をよくするのだ。――この最後の点は、おれも黙っていたが、芸者をダンサーに変えることについて、懇々と注意を与えてやった。
さよ子はあちらの室で、熱心に原稿を書いている。それが進捗するに随って、おれの懐にはそれだけ原稿料がころがり込むというわけだ。
分らない箇所があると、彼女はおれのところへ相談に来る。おれは懇切に教えてやる。それから、尋ねてみる。
「どうだい、この作品、面白いかい。」
「たいへん面白いんですけれど……。」
「けれど……なんだい。」
彼女は額の汗をハンカチで拭いて、かしこまっている。
「遠慮なく言ってごらん。どこかに発表するというものじゃない。ただ、君の勉強のために清書さしてるんだ。いつも言う通り、物を書くということは、物をはっきり考えることだ。考えることと書くこととを、一緒の
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